お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年10月25日火曜日

2-6 スレイマニエ・ジャーミイ4 角を曲がるとミマール・シナンの墓

北側の角を曲がると、何やら写真でみたことのある建物が見えて来た。
ミマール・シナンの墓?
そうだ。シナンの墓だ
せっかく来たのに、あれもこれも修復中で見られなかったので、ミマール・シナンの墓がこんなところにあって嬉しい。この墓を挟んで道が二つに分かれている。
『イスタンブール歴史散歩』は、2本の小路が交わる三角形の土地に、ミマール・シナン自身が設計した彼の墓がある。シナンは長年、この土地に暮らし、ここに埋葬されたという。三角形の頂点のところに、小さなドームを頂いた瀟洒なセビル(水場)があるという。
水場の向こうに見える尖ったドームがシナンの墓だ。
とは言っても、平面図に⑲ミマール・シナンの墓はこの位置にある。Mさんが勘違いしただけだ。
まずは墓の向こう側へ。
ここから下り坂になっていて、墓の方は何も見えない。
反対側に戻ると、「ミマール・シナンの墓、1490-1588年」という表示がある。シナンは98歳と、当時ではおそろしく長生きだった。60歳でスレイマニエ・ジャーミイの建築に着手し、完成してから30年も生きたことになる。
『オスマン帝国の栄光』は、晩年、「シェフザーデ・モスクはわたしの徒弟時代の、スレイマニエは職人時代、セミリエは親方時代の作品だった」と自ら語っている。1574年、エディルネにある傑作セミリエ・モスクを完成したとき、彼は80歳だったという。
生没年にも諸説あるようだ。
ミマール・シナンの墓を見に来たのは我々だけではなかった。我々が立ち止まっている間にも、数人が道端で墓の方を向いてたたずんだり、墓に近寄ったりしていた。
同書は、1538年、皇帝直属の建築家の長に任命され、その後の半世紀の間に、81のモスクを初め、神学校、霊廟、給食所、病院、水道橋、宮殿など、信じられない数の建造物を手がけ、97歳で世を去った。最高傑作と言われるエディルネのセミリエ・モスクを完成させたのは85歳のときであるという。
石棺には浮彫が施され、の上部にはターバン状のものがのっている。スルタンアフメット廟でもたくさん見かけたが、皇帝一族の男子の棺だけに付けられるものでもないようだ。
墓地の中に人がいる。入れるのだろうか。Mさんが尋ねてくれたが、修復中だということだった。
尖頭ドームの内側は、4本の柱からムカルナスが立ち上がって、その上に円が置かれ、たくさんの縦畝が頂点の小円へと向かっている。ムカルナスは3段構成で、五角形の星形が幾つか垂飾のようになっていて、2段目の両端には花文の浮彫があるなど、細工が細かい。
残念ながら、これ以上は見えない。
モスクの外壁に沿って歩いていると左側にドームが二つ見えて来た。⑦第3学院と⑧第4学院だ。
やがて、右側の外壁のはずのところが商店になってきた。いったいどうなっているのだろう。モスクの敷地に張り出しているのだろうか。
 曲がり角まで来ると⑨ハマーム(公衆浴場)が斜めに現れた。
赤いレンガと白い切石の壁が当時のものだろう。今でもハマムのようで、人の出入りがある。
入口上のステンドグラスも当初のものだろうか。
右に曲がると向こうに高い壁。右側は見たことのある建物だ。これは⑥ハーディス学院、というよりは⑪と同様に貸店舗が続いていたのだろう。アーチの一つ分が一つの店舗で、十数個並んでいる
その先でスレイマニエ・ジャーミイを一周したことになる。

※参考文献
「イスタンブール歴史散歩」(澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社)