お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年12月2日金曜日

2-17 イエディクレ(Yedikule)3 黄金の門

イエディクレには黄金の門というのがある。
『イスタンブール歴史散歩』は、城壁に組み込まれた4本の塔の中央に、アーチ型の門がある。これが有名なローマ時代の凱旋門黄金の門である。390年頃テオドシウスⅠ世がこの門を建てたときは、城壁はなく、門だけであった。門はその名のとおり黄金の板で蔽われ、ファサードは彫刻で装飾されていた。20年後、テオドシウスⅡ世が城壁を拡張するとき、黄金の門は城壁に組み入れられたのであるという。
GENÇ OSMAN KULESI、英語でもGENÇ OSMAN TOWERというのがあった
GENÇは若いという意味らしいが、何かわからない。とりあえず中に入ってみた。
内部は木材で2段構造になっているが、当時のものかどうか。塔を衛る兵士たちの宿舎という印象だった。
内部はロープが張ってあり、歩き回ることはできなかった。
黄金の門は数回、皇帝の凱旋門としての栄誉ある役割を果たしている。ビザンティン皇帝最後の凱旋は、1261年、ミカエルⅦ世パレイオロゴスがコンスタンティノープルをラテン軍から奪還したときだった。しかし、ビザンティン最後の200年は敗北につぐ敗北で、輝かしい歴史を持つ黄金の門も敵の襲撃を避けるためにふさがれてしまったという。
その黄金の門の中は今では物置。左に残った脇門の開口部から外に出てみる。
門の外にはまた門のようなものがあった。
黄金の門の外にもうひとつ大理石の門が立っているが、これは黄金の門が壁とつながってしまったために付け加えられたものだろうという。
門の中にはウェディングドレスを着て記念写真を撮っている一団がいるので入れなかった。
この御一行以外にも何組かあちこちで記念写真を撮っていた。トルコでは結婚の記念写真を名所で撮るという習慣があるらしく、東部のネムルート山でも1組、日が暮れるまでコンマゲネ王国の王や神々の落ちた頭部の前で写真を撮ったり、観光客の祝福を受けたりしていた。
イエディクレの中に戻る。この2列に並んだ円い石、さっきから気になっていた。

当時のものではないだろうが、1453年テオドシウスの城壁を崩壊させる時に用いられた大砲の弾も、このような石だったらしい。
右向こうが南の塔。真ん前のレンガ造りの煙突のようなものはモスクのミナレットだった。
中庭の中央に立っている塔はね駐屯兵のためのモスクの尖塔(ミナレット)の残骸であるという。
確かに狭い螺旋階段があった。かなりの急階段だ。
ムスリムのMさんは、プレートを見るまでこの建物跡がモスクだと信じなかったのだった。

※参考文献
「イスタンブール歴史散歩」(澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社)