お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年12月6日火曜日

2-18 テオドシウスの城壁(Theodosius Surlari)1

イエディクレを出ると、隙間なく縦列駐車していたMさんの車の前後には、車はいなくなっていたので、ぶつけることなく車を出すことができた。
『図説イスタンブール歴史散歩』は、この町が、いくたびかの外敵の来襲を撃退できたのは、その地形の利と大城壁によるところが、大きかった。
海に守られた北・東・南の三方面は、守るに易く、一重の城壁がめぐらされているのみであった。
町の西側のみは、その西方にひろがるトラキアの地と陸続きであり、陸上からの大規模な攻撃にさらされやすかった。このため、最大の弱点たる市の西側の防衛のために、コンスタンティヌス大帝以来、次々と城壁が設けられた。とりわけ413年に完成したテオドシウス帝の三重の城壁は、それらのなかでも最大のものであった。延長約5.6㎞のこの大城壁によって、この町の西の守りも万全となったという。
Mさんには10.Yil Cdという城壁の西側の通りを通ってもらった。もちろん城壁を見たかったからだ。
崩れたままの城壁が続く。
『図説イスタンブール歴史散歩』は、テオドシウスの城壁は、高さ12m、幅5mの内壁、パラティキオンと呼ばれる回廊の外に、高さ8.5m、幅2mの外壁があり、その外側の回廊ペリポロスの外に約2mの胸壁が設けられ、その外は幅20mの濠であった。内壁と外壁には各々96の物見塔が配されていたという。
ここで見えている物見塔は外壁の方だが、歩道から外壁まで、そんなに離れているようには感じなかった。
この通りは結構スピードを出して通る車が多いので、ゆっくりと走ってもらうのは無理だった。
修復された城壁が続き、ベルグラード門 Belgrat Kapisi が見えた。
『イスタンブール歴史散歩』は、イエディクレを出たら、この砦のすぐ北にある小門から壁の外側に出て、城壁に沿って北へ向かおう。600mほど歩くと、修復されたベルグラード門に出るという。
その程度の距離なら、ここまでは城壁に沿って歩いて、Mさんに拾ってもらえばよかった。
シュレイマン壮麗王が1521年ベルグラードを陥落させたとき、その町から連行した職人たちをこの付近に住まわせたところから、この名があるという。
城壁はまた崩壊したままになった。こちらは内壁の方の大きな物見塔が残っている。
左に倉庫のような建屋とその上に載ったように家が見える。小高い丘でもあるのだろう。
さらに進むと、シリヴリ門 Silivrikapi に出る。1261年、ビザンティン軍がラテン軍の守備を突破してコンスタンティノープルを奪還した記念すべき門であるという。
写真には撮せなかったが、二重構造ということだ。
門から入ったところにあるイブラヒムパシャ・モスク Íbrahim Paşa Camiiにもちょっと寄ってみたい。シナンの作だけに、趣きのある魅力的なモスクである。1551年、シュレイマン大帝の大宰相の一人だったイブラヒム・パシャのために建造されたという。
時間があれば少し寄ってみたかった。1551年といえば、スレイマニエ・ジャーミイを建造していた頃のことだ。ミマール・シナンはスレイマン大帝の壮大なモスクを建てている間にも他のモスクを建てる余力があったのだ。
何故かモスクを巡る回廊にはガラスが張られている。
この先もかなり崩壊の進んだ城壁が続いた。
アーチ列が残っている。壁体の補強に用いられたのだろう。
次はメヴレヴィハネ門 Mevlevihane kapisi である。かつてこの門の外に、メヴレヴィ神秘主義教団の僧院があったためにこの名がある。門の上にはいまもビザンティン時代の碑文が残っているという。
現在では短くメヴラーナ門 Mevlana Kapi と呼ばれているようだ。

※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」
「図説イスタンブール歴史散歩」(鈴木董・大村次郷 1993年 河出書房新社)
「イスタンブール歴史散歩」(澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社)