お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年12月9日金曜日

2-19 テオドシウスの城壁(Theodosius Surlari)2

さて、あのトプカプ門はもうすぐかなと思ったら、いきなり立体交差に入った。10.Yil CD通りの直進はくぐって通過するので、城壁は全く見えなくなってしまった。

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その間に、路面電車トラムヴァイで通ったTurgut Özal Cdに続き、トプカプも通り過ぎてしまった。
ビザンティン時代は聖ロマヌスの門と呼ばれたトプカプがある。トプは大砲、カプは門、トプカプとは「大砲の門」の意である。コンスタンティノープル攻めに際して、メフメットⅡ世はハンガリイ人技師ウルバンに造らせた巨大な大砲をこの門の前に据え、自らもここに天幕を張って露営し、猛攻撃をかけたという。
トラムヴァイの通る大通りがトプカプのあった場所と思っていたのに、一つずれていた。
ウルバンはとてつもなく大きい大砲を鋳造し、最初はビザンティン側に売り込んだのだが、すでに疲弊しきっていたビザンティン帝国にはもはや買い入れる財力もなく、オスマン側がこれを買うことになったという。
そこから先の話は見てきたように覚えている。
当時大砲の弾は、イエディクレにもあったように、石の弾だった。しかも、1日に撃てる弾の数はたった7発だった。オスマン側が7発の石の弾で壁をいくらか壊すと、夜の内にビザンティン側がそれを修復した。女子供までが総動員で手伝ったという。昼間にオスマン側が壊し、夜にビザンティン側が修復するということを繰り返して長い時間がかかってやっと城門を壊すことができたのだった。
ところが、どの本を開いても、そんな話はどこにも書かれていなかった。私の空想だったのだろうか。
かなり下側の道を走って、また地面の高さになった。
と思ったら、今度は高架になった。
雷が落ちて割れたような物見塔。
その高架も終わりに近づいた。
城壁は道路から離れ、その向こうにモスクがある。ミフリマー・スルタン・ジャーミイ(Mihremah Sultan Camii)だろうか。
『イスタンブール歴史散歩』は、イスタンブールで最も高い丘に立つこのモスクは、市内のどこからでも眺められる。スレイマン壮麗王のお気に入りの娘で大宰相リュステム・パシャの妻であったミフリマー・スルタンのために建てられたもので、シナンの傑作のひとつであるという。
もちろんリュステム・パシャとは、先ほど見学したイズニク・タイルの美しいリュステム・パシャ・ジャーミイを建てた人物だ。
あれ、エディルネ門(Edirnekapi)の立体交差の手前で、金角湾まで繋がっている道路からそれてしまった。
テクフル・サラ(Tekfur Sarayi)も見たかったのに。
クシロケルコウ門と接して、いまは廃墟と化しているが、ビザンティン時代の重要な建物の残骸が残っている。トルコ語でテクフール・サラユと呼ばれるこの宮殿は、13世紀から14世紀初期にかけて建造され、ビザンティン末期の2世紀の間、皇帝の宮殿ひとつとして使われた。三階建てで、城壁の外側と内側の間に築かれている。
いまは天井みなくなっているが、ファサードのレンガと大理石を積んだ幾何学模様が美しい。この技法は後期ビザンティンの代表的なものである。三層になったアーチも華やかな宮殿だった頃を偲ばせるという。 
地図で見るとエディルネ門からそれほど離れていないが、車で通っているとそれがわからないのだった。
どこをどう通ったのかわからないが、とにかく金角湾に出てた。せっかくなので金角湾の一番奥を見てみたい。
金角湾は思ったよりも蛇行して深い。湾と言うよりは川のようだ。

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金角湾を眺めるのに最適な場所はピエール・ロティのチャイハネがあるらしい。
今日は土曜で車が多いので、テレフェリク(Teleferik)で行った方が早い
私もテレフェリクに乗ってみたかった。
車を駐車場に置いて、乗り場に行ってみると長蛇の列。テレフェリクとはどんな乗り物だろう。スキー場のゴンドラのように、小さくてもどんどんやってくるのだろうか。しかし、どんどん人がはけていくような雰囲気はない。
結局かなりの間隔で運行されているロープウェイのことだった。これではいつになるかわからないので、諦めた。
土曜の午後ともなれば、観光客だけでなく、イスタンブールの人たちもいろんな観光地にやってくるらしかった。今度来る時は土日は避けよう。

※参考文献
「イスタンブール歴史散歩」(澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社)
「イスタンブールが面白い」(小田陽一・増島実 1996年 講談社)