お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2012年1月16日月曜日

1日目5 シャンルウルファ2 アブラハム生誕の洞窟モスク

アブラハム生誕の洞窟に行きましょう。アブラハムは生まれてから7年もの間洞窟に隠れていました
このアブラハムは、ウルからカナンの地にヘブライの民を連れて行った預言者のアブラハムではなく、イスラームの時代の人のことだろうか。
トルコ人の多くは、この町こそ預言者アブラハム(イブラヒム)がカナンに向けて出発した「ウル」であるとする。伝説によれば、国を失う夢を見た当時の支配者ニムロットき、その年に生まれる子供が国を滅ぼすという祈祷師の言葉を信じ、嬰児の皆殺しを命じた。そのためアブラハムの母が隠れて彼を出産したのが、この洞窟だという。
やっぱりあのアブラハムのことだった。
イスラーム教はユダヤ教・キリスト教と同じ啓典の民と言われる。ムハンマド(日本でいうマホメット、トルコ語ではメフメット、コンスタンティノープルを陥落したメフメットⅡもムハンマドだった)は商人だったので、ユダヤ教徒やキリスト教徒などと付き合う内にその影響を受けたと言われている。
そのため、ユダヤ教の預言者はそのままイスラームの預言者となり、キリストも預言者で、最後の預言者がムハンマド自身ということになっている。
ウルはチグリス・ユーフラテス河の下流にあった古代からの都市のことだが、ウルファがウルに似ているため、何時の頃からかそう信じられるようになったのだろう

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通りから階段を下りていくと、美しい庭園があった。平日だというのにたくさんの人々が去来している。
通路のそばには魚のいる水路が流れている。
そして目線を上に移すと、大きな木々の緑が外の景色を遮断している。
バラと大木の間にはアーチ列があって、どうやらその方向に向かっているようだった。
東西方向のアーチ列は、近づくと柵のあるおおきな窓が並んでいるようだった。建物の列柱の遺跡が残っているのではなく、そこから境内になっている風だった。
回廊が巡り、身を清める水のある中庭の奥がモスクになっている。
ちょっと違うのは、モスク中庭の泉水は水が出る堂を造るのだが、ここでは水を引いてきて、それがモスクの外へと流れ出るように造られていることだ。
アブラハムは7年も洞窟に隠れ住んでいました。
モスクには男女別々の入口から入る。中も間仕切りがされていた。スカーフを持っていない人や短い袖、短い裾の人は布を借りてから入っていく。
礼拝堂の奥に洞窟があった。妙な照明のため緑色に見えるが苔ではない。右の欄干のようなものの半分が女性用礼拝堂側、後の半分は男性用礼拝堂側になっている。
洞窟のある面がマッカ(メッカ)の方向、キブラになっているので、イスラームの人々は座り込んでお祈りしていた。
しかし、その後で皆左端へと向かうのだった。私もついていってみると、そこでは水が出るようになっていて、聖水を飲んだり持ち帰ったりするらしかった。
そうか、この洞窟の水が中庭に引いて泉水にしているのか。
中庭に戻る。中庭はかなり横長になっていた。また泉水堂がある。
泉水堂があれば、モスクがある。このドームが通りから見えていたようだ。
ハリル・ラフマーン・ジャーミイ Halil Rahman Çamii、1211年にアイユーブ朝のマリク・アシュラフによって建造されたものだという。 
しかし、この大ドームと細いミナレットは創建時のものではないはず。オスマン朝時代に建て替えられたものだろう。
回廊の向こうには大きな泉水堂のある回廊があって、そこを出るとヒッタイト時代のシャンルウルファ城が見えた。どこから登るのだろう。
しかし我々は水路に沿って城からどんどん離れていく。
やがて、また別のアーチ列に近づいていった。
アッシリア領主ニムロットが、アブラハムを火あぶりの刑にしようとした場所。神が火刑の火を水に、燃えさかる薪を魚に変えたという。今でもこの地にはたくさんの魚がすみ、聖なる魚とあがめられている。池の北側には1736年建造のルドヴァニエ・ジャーミイ Ridvaniye Camiiがあるという。
アーチ列は東西に長く、写しきれない。燃えさかる薪の子孫がたくさんいる。
西の端には低いところにドームがある。涼をとりながら水辺を散策してみたいが自由に歩き回れない。
結局この後公園を出てしまったので、向こうのモスクも、左のドームも見学できなかった。
シャンルウルファ城など論外だったのだ。

※参考文献
「地球の歩き方E03 イスタンブールとトルコの大地」(2011年 ダイヤモンド社)