休憩後1時間ほど走ると建設中の建物が現れだした。街が現れる前触れのように、郊外には建設中の建物がある。そして、そのどれもが耐震性を疑うような造りなのだった。トルコも大地震が何度も起きている国なのに。
城壁が見えて来た。ディアルバクルは城壁に囲まれた街だった。
『世界歴史の旅トルコ』は、チグリス河の西に位置し、ローマ時代の4世紀に築かれた5.5㎞にわたる城塞によって堅固に囲まれている。周辺にも数多くのテルを見ることができる。中央アナトリアでは、遺丘はホユック、フユック、テペと呼ばれることが一般的であるが、南東アナトリアでは、シリア、イラクで使用されているテルが使われている。いずれも高さが15m前後のものであり、多くは椀を伏せた形のものが多い。どれを歩いてみても土器片が散在している。いくつか手にとって見ると、ディアルバクルには北メソポタミア、北シリアから搬入されたハラフなどの彩文土器が混じっており、ディアルバクルがメソポタミア世界の一部であったことを物語っている。
町はテル上に建設されたが、ローマ時代にはパルティア、ササン朝ペルシャと刃をまじえたという。
この城壁は349年、コンスタンティヌス帝が造りました
高さよりも見張り塔の巨大さに驚く。
ハルプートゥ門ではなく、チフト門 Çiftkapi(二重門)から城壁内に入っていく。二重というよりも、アーチが横に2つ並んでいる。ローマ時代のアーチをバスでくぐった。
城壁内側は城壁に沿って公園として整備されている。ローマ郊外にも公園になっているのをバスから眺めたことを思い出したが、もちろんディアルバクルはローマよりもずっと小さな街だ。
二重のアーチから見張り塔に上るための階段が両側についている。
同書は、995年の大地震で損傷し、984年から1085年までディアルバクルとスィルヴァンを実質支配していたメルバーニ朝が、その期間を通じて4基の塔と市壁の一部を建設している。また、1088年から1093年にかけては大セルジューク朝のスルタン・マリク・シャーが3基の塔と市壁の一部を建設している。その後、この地方を12世紀に入ってから支配したアルトゥク朝が、1198年に2基の塔を建設し、さらに13世紀初めにはイェディカルデシュ塔とウル・ベデン塔を建設したという。
その階段が崩れたままになっている。城壁に使われた石は場所によって大きさもさまざまだ。
こんなところでもスイカを売っている。スイカはアナトリアではいつから栽培されているのだろう。
ディアルバクルはローマ時代の城壁が残る街です。そしてスイカの名産地でもあります
街に入るあたりに、3段に積み上げられた丸い城壁のてっぺんにスイカが飾られたモニュメントがあった。黒いデコレーションケーキにスイカがトッピングされたようなものの前を通りながら、Kさんは説明してくれたのだった。
やがて変わったモスクが見えた。ドームではなく八角形の低い屋根になっている。
ビザンティン時代のキリスト教会をモスクに変えました。他のモスクとは形が違っているのはそのためです
アリ・パシャジャーミイ Ali Paşa Camiiというらしい。内部がどんなふうになっているのか見学したい!
バスが南のマルディン門を過ぎたところで止まった。
塔の上までちょっとあがってみましょう
城壁は玄武岩の切石が積み上げられているので黒いのだが、間近で見ると気泡がたくさんあった。
新しく修復された部分は大きな切石が使われている。
見張り塔は結構な広さがある。現代ではカフェになっているらしく、大きなパラソルがある。
その先から見せたいものがあるという。
丸い城壁の周囲は豊かな農地が広がっている。さすがにチグリス川に沿った街だ。
右の向こうの方に小さな川があるのが見えますか?橋がかかっています
これもチグリス川の一部だという。尖頭アーチの並ぶイスラーム時代の橋だ。
1065年にスィルヴァン(当時の名メイヤファルキン)の統治者の命により修理された。建築家はウカイル・ビン・センゼルと碑文に書かれている。
スィルヴァンやディアルバクルが大セルジューク朝の支配下に入ったのは1085年なので、トルコ族による建設ではなくアラブ族による建設だが、その後の建設活動の先駆けである。
10個のアーチをもつ切石造りの橋で、水面からの高さ9.7m、長さ約150m、幅は東側の5個のアーチの部分が6.5mで、西側5個のアーチの部分が10mである。現在も自動車が通行している橋であるという。
イスラームでもセルジュク朝以前のアラブ系だった。
あの橋の上を歩いてみたい!
※参考文献
「世界歴史の旅 トルコ」(大村幸弘・大村次郷 2000年 山川出版社)
「トルコ・イスラム建築」(飯島英夫 2010年 冨士書房インターナショナル)