お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2012年5月10日木曜日

7日目7 トラブゾン、アギア・ソフィア聖堂1

『世界歴史の旅ビザンティン』は、1204年に首都コンスタンティノポリスが十字軍によって占領され、ラテン帝国が建国されると、ビザンティンの皇族、貴族は各地に亡命して再起をはかった。そのうちの一つが、黒海沿岸のトレビゾンド(現トラブゾン)帝国である。トラブゾンに残るビザンティンの建築・美術は、だから13世紀のものが多く、かつ質も高い。
首都の大聖堂の名にならったアギア・ソフィアは、トレビゾンド帝国のマヌイル1世コムネノス帝(在位1238-63)によって、おそらく1250年代に建てられたと考えられているという。
バスを降りて南西側から近づいて行った。
東に三つのアプシスをもち、西には広めのナルテクスを備えるすっきりとした形のギリシア十字式聖堂であるが、東を除く三方にヴォールト天井をもつポーチが張り出しているという。 
南ポーチから聖堂内に入る。扉口上には浮彫装飾が施され、土地柄近隣のグルジアやアルメニアからの影響を感じさせるという。
現地で買った『Trabzon The Frescoes of the Hagia Sophia』は、大ドームの要石にコムネノス帝国のシンボルである単頭ワシが東を向いて表されている。
下の浮彫の帯は右から左へと続く天地創造の物語である。
南ロシア、ウラジミールの聖デメトリウス教会(1195-1200)のものに似ているという。
南ポーチから聖堂内部へ入った。
①身廊
床の中央は立入禁止となっていて、そこには大理石や色ガラス、そして金箔ガラスで幾何学的な装飾がある。
これは コスマーティ様式と呼ばれるローマの12-13世紀の舗床モザイクだ。亡命政府とはいえ、ローマから工人たちを呼び寄せてこのような床を造ることができたのだ。
ドームにはフレスコ画が描かれていたようだが、褪色と剥落で何が描かれていたのかよくわからない。それでも、目を凝らすとキリストの右目が私を見下ろしていた。スメラでも見たパントクラトールだ。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、メダイヨン(円形枠)の中のキリストは、左に聖書を持ち、右手で祝福の仕種をとる。「昇天」という一回限りの事象を描くよりも、普遍恒常である神の、超越的なイメージがドームにはふさわしいと考えられたものであろうという。
ドーム下の円筒部には天使、その下には12の窓、窓の間に十二使徒が描かれる。
4つのペンデンティブには、左上から時計回りに、降誕、洗礼、冥府降下、磔刑が表されている。また、壁画の剥落した部分から、焼成レンガをどのようにペンデンティブに積み上げたかが伺える。
身廊から後陣(アプス、アプシス)を眺める。壁画は僅かに残っているという程度。
②後陣前横断アーチ
キリストの昇天:アーモンド型のマンドルラの中にキリストが表される。南壁の水平方向には使徒たちで占められ、北壁の水平方向には魚の奇跡の場面が表されているという。
③玉座の聖母子
イスタンブールのアヤソフィアでは後陣には聖母子像のみ、横断アーチに大天使ガブリエルと聖ミカエルが表されていたが、ここでは後陣に描かれている。
イスタンブールのアヤソフィア後陣はこちら
ここまで、様々な青があった。同じラピスラズリの青が、経年変化でこんなにも違ってしまったのだろうか。

④後陣横断アーチ左下部
下:ティベリア湖で漁をしていたシモンとペテロなど6名の使徒たたちは何も釣れなかった。翌朝昇天後地上に戻ったキリストに彼らは気づかなかった。キリストは彼らに言った。もう一度編みを投げよ。するとあまりにも多くて網を引き上げられないほどの魚がとれたという。
上:不信のトマ。昇天後地上に戻ったキリストを信じなかったトマに、キリストは釘跡を触るように言った。触ってトマはやっとキリストの復活を信じたという。
⑤北側廊扉口上のタンパン
4人の聖人、聖サバス・聖エンティニ・聖ユティミソン・聖テオトドシアスが鮮明な色彩で描かれているという。
他のフレスコ画よりも鮮やかすぎて、最近修復されたものかと思った。
身廊からナルテクス方向を眺める。
⑥ヴォールト天井南側の壁画
最後の晩餐、半月状のテーブルには魚をのせた高坏が置かれている。

関連項目
キリスト降誕図の最古は?
キリスト降誕について

※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」益田朋幸 2004年 山川出版社
「The Frescoes of the Hagia Sophia」Ísmaíl Köse Alí Ayazoĝlu, Ayasofya Müzesi Yani