お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年11月13日水曜日

デルフィ10 アポロンの神域9 スタディオン


『古代ギリシア遺跡事典』は、アポロンは、大蛇ピュトンの母であるガイアをなだめるために、ピュトンの葬礼の儀としてのピュティア祭を創始した。
前590年に、クリサに対する勝利を記念して、アンフィクティオニアのもとでピュティア祭が再編された。このとき、オリュンピア祭と同様の運動競技や演劇競演をともなう大祭典として再編され、以後は4年一度、夏に開催されることになった(オリュンピア祭とは2年ずれて開催された)。
こうして、ピュティア祭はギリシアの四大競技会の一つとなり、オリュンピア祭に次ぐ第2の採点として発展し、ギリシア各地から参加者を集めた。運動競技や、のちに加わった戦車競走は、神域の下方のクリサ平野で行われていたが、前5世紀に神域の上方にスタディオンが建造されてからは、運動競技はスタディオンで催されるようになった。優勝者に贈られる賞品は、アポロンゆかりのテンペ渓谷に生える月桂樹の冠だったという。

スタディオンはアポロンの神域から離れたところにある。
岩壁の麓には、ここも何かの遺構かなというものもあったりした。
結構距離がある。デルフィの遺跡では細長い糸杉が目立つが、この辺りは松が多かった。
緩い傾斜を登っていく。振り返って見えた景色。
ようやくスタディオンに着いたのに、ロープが張られていて、ここからは中に入れない。
ほぼ西の端から斜路が付いていて、そこから行くことになっている。劇場の最上部からここまで数分かかった。
スタディオンは西の端が半円形になっている。
そして長々と続いている。
『DELPHI』は、今日見られる石の座席は、ヘロデス・アッティコス(後103-179年)が費用を出して造った。
北側に12段の座席が設けられていた。南側には6段あった。前5世紀に保護壁が取り付けられた。西側にはスフェンドンと呼ばれる半円形の6段の座席があるという。
ギリシア時代は岩山を削り出した座席だったのか。
北側の途中の最前列にある、審判員が競技を見ていたプロエドリア。
長さ177.5m最大幅28.5m
東側には大理石板のスタートラインがつくられ、滑らないように2本の溝が彫られていた。西側のスフェンドンにも同じようなエンドラインがあったという。
なるほど、スタートラインらしきものが、4つの台座状のものの手前にある。
この台座の上には優勝者の像でも立っていたのだろうか。
スタディオンには記念門があった。3つのアーチのある凱旋門のような4本の支柱、そこから選手のパレードが始まった。スタディオンの収容人数は7000名だったという。
これがギリシア時代にアーチのある凱旋門?
いや、石の座席がローマ時代のものなら、これが凱旋門だったとすると、やはりローマ時代のものだろう。
スタディオンで競技をする選手たちは、ずっと離れたギュムナシオンで練習した。
ギュムナシオンについては次回。

デルフィ9 アポロンの神域8 劇場←   →デルフィ11 デルフィの町とギュムナシオン 

関連項目
デルフィ8 アポロンの神域7 アポロン神殿
デルフィ7 アポロンの神域6 デルフィの馭者像
デルフィ6 アポロンの神域5 青銅蛇の柱に載っていたのは鼎
デルフィ5 アポロンの神域4 ハロースに埋められていたもの
デルフィ4 アポロンの神域3 アテネ人の宝庫
デルフィ3 アポロンの神域2 シフノス人の宝庫
デルフィ2 アポロンの神域1 シキュオン人の宝庫
デルフィ1 まずはアテナ・プロナイアの神域から

※参考文献
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「DELPHI」 ELENI AIMATIDOU-ARGYRIOU 2003 SPYROS MELETZIS