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イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2014年1月22日水曜日

古代マケドニアの遺跡1 ヴェルギナ1 大墳丘にフィリポス2世の墓


テッサロニキ周辺は古代マケドニア。ヴェルギナとペッラはどちらも行ってみたい遺跡だった。

『古代王権の誕生Ⅲ』は、ハルシュタット文化後期とほぼ同じ時代、ヨーロッパからアナトリアにかけて各地に古墳が盛んに造られた。イタリア半島中北部のエトルリアではさまざまな形式の墓が造られ、その中に円墳もあるが、あまり大きいものはなく、内部の墓室はギリシア風の切石造りの横穴式である。バルカンのトラキアでも前5-3世紀に同じくギリシア風の墓室を持つ円墳が造営されている。トラキアのすぐ南に位置するマケドニアでも円墳が造られた。特に大きくて有名なのは、アレクサンドロス大王の父であるフィリッポス2世の墓といわれているヴェルイーナの大古墳であるという。
北方ユーラシアの大円墳を調べているうちにフィリポス2世の墳墓に行き当たった。
それについてはこちら
そんな大きな墳丘が今も残っているなら、是非見たいものだと思い続け、やっとその願いがかなうことになった。

『世界歴史の旅ギリシア』は、テサロニキの南西、ピエリア山脈の麓に位置するヴェルギナでは、初期鉄器時代から前6世紀にかけての小円墳やヘレニズム時代の王宮跡などが知られていたが、1977-78年に豪華な副葬品とファサードのみごとな墳墓が発掘されて大きな反響をよんだ。
調査にあたったテサロニキ大学のアンズロニコスは、未盗掘でもっとも副葬品の豊かな第二墳墓を、壁画や出土品の吟味にもとづいて「フィリポス2世の墳墓」と断じた。被葬者の問題をめぐっては以後延々と議論が続いているが、ヴェルギナの墳墓が前4世紀後半のマケドニア王の墓であることは確かであり、その発見がマケドニア史研究に与えた刺激ははかりしれないものがある。とりわけ重要な点は、これまでエデサと考えられてきたマケドニアの古都アイガイの場所が、ヴェルギナにほぼ確定されたことである。アイガイは、前5世紀末に王アルケラオスによって新都ペラが建設されてからも、宗教や祭儀の中心地としての重要性を保ち続け、歴代の王の埋葬の地となっていたという。 
①宮殿 ②劇場 ③エフクリアの神殿 ④公共の建物 ⑤ロメオの墓 ⑥ギリシャ人の家 ⑦神々の母の神殿 ⑧大墳丘(メガリ・トゥンバ) ⑨ティムボン墓地 ⑩ベラ耕作地の墓 ⑪アクロポリス (『ベルギナ考古学遺跡の散策』、以下『ベルギナ』より)

東側の道路に面したヴェルギナ遺跡の入口。すでに墳丘が見えている。

墳丘全景 直径110m
『ギリシア遺跡事典』は、アンズロニコスが発掘した大墳丘は、直径110mの巨大な塚とそれよりも古い内側の直径20mの赤土製の塚の二重構造になっており、その内側の塚の下から、小さな石櫃式墳墓(第1墳墓)とマケドニア式墳墓(第2墳墓)、翌1978年にはさらにもう1基のマケドニア式墳墓(第3墳墓)が発見された。塚の外周に近い第1墳墓は、完全に盗掘されていたが、第2・第3墳墓は幸いにも未盗掘で、王家にふさわしい豪華な副葬品と見事な壁画が出土したのであるという。
そんな大円墳が見られることになり、私家版ガイドブックを作成していると、
前277年、アンティゴノス・ゴナタスの即位で、アンティゴノス朝マケドニアが成立
前274年、エペイロス王ピュロス、マケドニアに侵攻、ピュロスがアイガイに置いたガリア人傭兵の駐留軍が王墓を略奪
前272年、ピュロスを倒して最終的に王権を安定させたゴナタス、王墓を守るために大墳丘を築く
ということがわかった(引用した文献は不明)。
前3世紀前半に、略奪を防ぐために、複数の墓の上に土を盛り、丘のように見せかけた人がいたのだ。それはアレクサンドロス大王の部将の一人アンティゴノス1世の子孫だった。

『ベルギナ』は、割栗石の壁で囲まれ、高さの三分の二の土が大きく盛られていました。古墳の南部分に墓がありましたという。
ゴナタスは墳墓群(南側に並んでいる)を覆うだけでなく、もっと巨大な墳丘を築いたようだ。

大円墳ではなかったからといって、このマケドニアの墳墓群に興味がなくなったわけではない。見たいものはたくさんある。
人のいる方に歩いて行くと、そこは出口だった。
左に回り込み入口へ。内部は撮影禁止。

墳丘内部
『ギリシア古代遺跡事典』は、大墳丘の王墓の発掘は、1980年に完了し、その後整備されて、王墓の保護と一般公開のために、巨大なドーム状の近代的な地下博物館として建造されたのである(1993年に完成)。4つの六角形のホールからなる博物館自体が、古代マケドニアのロマンと20世紀のテクノロジーが結合した不思議な空間をつくりだしているという。

入ってすぐの六角形の部屋。左が第2墳墓への入口、右が第3墳墓への入口。
下の写真は完成当時のもの。博物館としては、このホールには副葬品の陳列ケースが並んでいる。

第2墳墓への入口の左側には第4墳墓の柵のある六角形の部屋、奥の六角形の部屋の英雄の記念碑の石積みが見えている。

内部の模型で、英雄の記念碑と、第1・第2・第3墳墓の発掘状況を知ることができる。
この模型の順に、

英雄の記念碑
同書は、第一墳墓のすぐ左側に大きな石造建築物の基壇。9.6X8mは、墳墓に葬られた死者の崇拝に関する建造物(英雄廟=ヘーロイオン)と推定されるという。
想像していたよりも大きなものだった。

第一墳墓 通称ペルセフォニの墓 幅2.09m、奥行3.05m、天井までの高さ3m 矩形の単室墓
同書は、フロアから階段を上がって墳墓の天井部を見下ろすことができる(墓室内部を見る)。
大墳丘のなかでは一番規模が小さく、年代は最も古い。
墓室の床に散らばっていた人骨の分析から、3人が埋葬されていたと考えられるが、被葬者を特定しうる手がかりは極めて乏しい。
墓室の内壁には、西側の壁を除く3面に壁画が施されていたという。
壁画の主下の青い帯には、鳥グリフィンが何かを間に挟んで向かい合った図が繰り返し表されている。

『ベルギナ』は、略奪されてはいるものの、神話の題材からの素晴らしい壁画が残されています。これらの中ではっきりしているものは、冥界の王プルトナに依るペルセフォニの誘拐という。
『世界美術大全集4ギリシアクラシックとヘレニズム』は、速い動作を的確簡潔な筆によってとらえ、風にたなびく衣服と頭髪を一気呵成の描線で表している。「彼以上に速描きの画家はいない」とブリニウスが称えたニコマコスをほうふつとさせる壁画であるという。
腕などに輪郭線と同じ色の斜線を並べて陰を表現し、着衣もグラデーション(暈繝)ではないが、襞を濃淡で表し立体感のある表現となっている。

『ベルギナ』は、狭いほうの壁には女神ディミトラが岩の上に腰掛け、娘の行方不明を悲しんでいる様子。長いほうの壁には更に3人の女性が描かれていますという(ディミトラはデメテル)。
彩色は褪せているが、陰影で立体感を表している。

第2墳墓 フィリポス2世の墓 未盗掘 前320年頃
長い階段を降りて、最下段からファサードを見るだけ。内部には入ることが出来ない。
『ベルギナ』は、墓の主はBC4世紀の偉大な軍人であり、政治家であったフィリポス二世その人だったのです。
王様は彼の娘クレオパトラの結婚式の最中エーゲスの劇場で暗殺されました。こうしてアレクサンドロスが王位につく事になったのです。大急ぎで贅沢な贈り物と共に大きな墓に埋葬されたのです。貴重な武器、高価な銀や銅製の器物が偉大なる死者に添えられましたという。

ファサードの上のフリーズには絵が描かれていたらしいことはわかった。
『世界美術大全集4』は、ドーリス式オーダーのファサード(建築正面)をもち、その最上部の、幅5.56m、高さ1.16mのフリーズに狩猟図が描かれている。漆喰の白地に、緑の枝を繁らせた樹木や裸の大木からなる森が背景を構成し、3人の騎馬人物、7人の部下、それに猟犬が、鹿、猪、ライオン、熊をそれぞれ獲物とする4つのグループを形成している。
絵画として興味深いのは、3体の騎馬像が四分の三後ろ向き、右向き四分の三正面、それに左向き四分の三正面とそれぞれ異なる面を示し、その一方で何れの馬も前脚を高く宙に上げたポーズをとっていることであるという。
フリーズの下にはトリグリフとメトープが交互に並んでいる。ここには浮彫があったのかな?扉両側の円柱は付け柱。

『ベルギナ』は、壁画部分の詳細。若い馬上の狩人は、多分アレクサンドロス自身でしょうという。 
『世界美術大全集4』は、馬体にみられる大胆な短縮法、重なり合う形象などによって奥行きのある絵画空間が作られているという。

金の骨箱 41X34X20.5㎝ 7.82㎏
『GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL MUSEUM OF THESSALONIKE』は、金板を鎚打ちして作った。蓋の中央には二重のロゼット。内側の花弁には青いガラスを象嵌し、16本の光線が巡っている。これはおそらく原始的な太陽のシンボルで、王族の墓だけではなく、マケドニアで一般的なもの。早くもフィリポス2世の時代から、この星のシンボルは公式な象徴となり、楯、貨幣に使われた。中央は青ガラスが象嵌された5つのロゼットが並ぶ。上はパルメットと蓮の花を内側から鎚で打ち出したもの。下は花のモティーフで、小さな花をつけた巻きひげと、中央の萼から出た葉やアカンサスの花が左右に巻いているという。
獣足についてはこちら
その蔓草文様についてはこちら
他の副葬品と共に、ロビーのケースに展示されていた。

『ギリシア古代遺跡事典』は、主室と前室は大理石製の2枚扉で仕切られている。通常のマケドニア式墳墓と比べて、異例に前室が大きく、主室と前室の両方に大理石の石棺と黄金の骨箱があり、それぞれに埋葬が行われていたこと、主室と前室への埋葬が同時ではなかった可能性が高いことなど、興味深い点は多いという。

第3墳墓 王子の墓 前4世紀後半
別の階段を降りると王子の墓。ここもファサードを眺めながら説明を聞いた。
第2墳墓同様、フリーズには壁画、メトープには浮彫があったのだろう。
扉両側には付け柱もない。左右の壁面に円形の出っ張り。
『ベルギナ』は、浮き彫りと絵のある盾という。
戦車競技 控えの間フリーズ
同書は、貴重な器物、武器、象牙と金でできたベッドなど死者への全ての埋葬品が保存されていました。死者は14歳くらいの若者で王族の一人でした。その為、墓は”王子の墓”と呼ばれていますという。
銀製品は空気中の硫化ガスで黒くなるというが、地下、石室内ということで、銀色のまま出土した。

死者の遺骨は銀製の壺に保存され、その壺には金細工の冠が掛けられ、石の台の上に置かれていましたという。
この立体的な金冠。これがマケドニアの王冠の特徴だが、ペラやテッサロニキの博物館で知ることになり、暗い館内で写真を撮りまくったが、ほとんどピンボケに終わることとなる。

第4墳墓 自由の柱の墓 単室墓 前300年頃
柵で囲まれた墓室を回り込んで見学する。

『古代ギリシア古代遺跡事典』は、盗掘されているだけでなく、墓の石材のほとんどがすでに古代に持ち去られてしまっているため、原形をとどめていない。ファサードのドーリス式円柱、墓室の床の一部、壁の基壇の一部が残っているにすぎない。ファサードの4本の円柱は、壁に半分埋め込まれる形(付柱、もしくは半円柱)になっている通常のマケドニア式墳墓の円柱と異なり、ファサードの壁から独立して立っている唯一の例として関心を集めている。被葬者の特定は不可能であるが、前3世紀初頭のかなり重要な人物の墓と考えられているという。
マケドニアはアレクサンドロス大王の死後、部将のアンティゴノスの孫ゴナタスが統治することになった。そのアンティゴノス1世は前301年に没しているが・・・

それぞれの墓の副葬品だけでなく、墓石柱も展示されている。

一番奥の墓石柱
唐草文、アカンサスの葉、卍繋文などで丁寧に装飾されている。
その割に銘文の文字は不揃い。
本体のリボンは、結ぶ際にできる皴や陰、風に翻る端や紐までが詳細に描かれている。

                                                                                    →ヴェルギナ2 王宮まで


関連項目

ペブル・モザイク2 ペブルからテッセラへ
ペブル・モザイク1 最初はミケーネ時代?

アレクサンドロス大王の父フィリッポス2世の墓は
古代マケドニアの遺跡9 マケドニアの金製品
古代マケドニアの遺跡8 ペラ考古博物館3 ガラス
古代マケドニアの遺跡8 ペラ考古博物館2 ダロンの聖域
古代マケドニアの遺跡7 ペラ考古博物館1 漆喰画の館
古代マケドニアの遺跡6 ペラ4 アゴラ界隈
古代マケドニアの遺跡5 ペラ3 ヘレネの略奪の館
古代マケドニアの遺跡4 ペラ2 ディオニュソスの館
古代マケドニアの遺跡3 ペラ1 円墳を辿ると遺跡に着く

※参考文献
「GUIDE TO THE ARCHAEOLOGICAL MUSEUM OF THESSALONIKE」 JULIAVOKOTOPOULOU 1996年 KAPON EDITIONS
「古代王権の誕生Ⅲ 中央ユーラシア・西アジア・北アフリカ編」 角田文衛・上田正昭監修 2003年 角田書店
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版

「世界歴史の旅 ギリシア」 周藤芳幸 2003年 山川出版社
「ベルギナ 考古学遺跡の散策」 ディアナ・ザフィロプルー 2004年 考古学遺跡領収基金出版(日本語版)
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「世界美術大全集4 ギリシアクラシックとヘレニズム」 1995年 小学館