お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2014年1月6日月曜日

テッサロニキ3 アギオス・ディミトリオス聖堂1 モザイクとフレスコ


アギオス・ディミトリオス聖堂 創建5世紀
『ビザンティンでいこう!』は、コンスタンティノープルの守護聖人が聖母マリアであるように、テサロニキの街を守ってくれるのは、聖戦士ディミトリオスであった。聖人伝によれば、かつて街がアラブ軍に包囲されたときも、聖者が「イコンと同じ姿で」現れて、敵を蹴散らしたという。
街の中心には聖ディミトリオスに捧げられた5世紀の聖堂が鎮座し、今なお多くの信者を集めている。イコノクラスムの間に初期のビザンティン美術は大半が破壊されてしまったが、聖ディミトリオス聖堂には6世紀から7世紀にかけての貴重なモザイク壁画がいくつも残っているという。

初期キリスト教会のはずなのに、外観は新しそう。
『世界歴史の旅ビザンティン』は、テサロニキがトルコから解放されたのも、1912年10月26日、聖者の祭日であった。現在の聖堂は巨大な五廊式バシリカだが、かなりの部分は1917年の火災後に再建されたものである。
聖堂はディミトリオスが殉教したとされるローマ時代の浴場跡に、5世紀に建立された。7世紀前半に大規模な火災をこうむって再建されたことがわかっているという。
7世紀の再建が5世紀の建物の復元だとすると、20世紀前半に再建された現在の建物は5世紀の建物の再復元になるのかな?
窓の開口部が広い面積を占めている。それに昔は窓ガラスはロンデルを石や漆喰などで固定していたのかと思っていたが、格子窓だった。イスタンブールのアギア・ソフィアの窓も窓が大きいが、アヤソフィアの窓と窓の間はレンガ壁だった。アヤソフィアよりも軽快感があるのは、三連窓の仕切りが壁ではなく円柱だからだろう。5世紀の復元だとすると、アギア・ソフィア大聖堂(537年再建)よりも前にこのような開口部の大きな建物はあったことになる。
教会建築については、ロマネスク様式から勉強を始めた私にとっては、窓の多い聖堂というのは驚きだが、ローマの土木や建築の技術の高さを考えれば大したことはないのかも知れない。例えば、後80年頃に完成したコロッセオは3段のアーチ列が積み重ねられている。古代ローマの技術が続いていれば、このようなアーチ窓の多い建物など造るのは困難なことではなかったのだろう。

三連窓の右側の入口から入る。

内部に入ってまず感じた色は白だった。今までにない明るい内部だが、それは20世紀前半に焼失後に再建されたためだ。

梁に使われた木材の長さに限りがあるため、身廊の幅にも限界がある。たくさんの信者を収容するには、まず身廊を長くする。次に側廊の数を増やす。それで五廊式となった。
右側角柱にあるのは15世紀のフレスコ画。
『SAINT DIMITUIOS』は、聖ディミトリオスと聖グレゴリウスで、1917年の火災後に発見されたという。

身廊と側廊を仕切る三階建ての高いアーチ列。その向こうには内側側廊と外側側廊を隔てる低いアーチ列、そして南壁のアーチ窓の連なり。

内陣にはテンプロン、その前に低い結界があり、ここからは聖職者以外は立ち入ることはできない。
後陣(アプシス)の半ドームには2人の天使に囲まれた玉座の聖母子のフレスコがあるが、20世紀に焼失後描かれたのものだろう。

実は、テンプロンの両側の角柱には火災を免れたモザイク画が残っていて、それが見たかったのだ。ところが、せっかく現地に来ることができたというのに、こんな遠いところから、薄暗い場所にあるモザイク画を眺めたり、写したりしかできないとは・・・

北側のモザイク画

西面 聖ディミトリオスと2人の子供たち 7世紀 
『ビザンティンでいこう!』は、信者は教会に寄付をして、その代わりに壁画を飾る権利を貰うのである。聖人の庇護を願う者が、聖人と一緒にモザイクの中に表されている。聖者とともに2人の子供が描かれているパネルがある。子供が聖者に守られて、無事成長しますように。そう祈って、両親は教会に寄進を行った。1500年たとうとも、人間の願いなど変わるものではないという。
私の好みは題材ではなく、ガラス・モザイクの金と緑の色の組み合わせ。
南面 聖母と守護聖人テオドロス 
こちらはフレスコ画のような色調。聖母の着衣は金地の中では紺色だが、紺地の中では赤紫色であることが多い。

南側

これ東面 聖ディミトリオスと聖職者
ここにも緑と金の組み合わせがあった。 
北面 聖ディミトリオスと2人の聖堂建立者 
右はヨハネ司祭、左はレオンティウス司教(『SAINT DIMITRIOS』より)。
撮影する角度のせいか、このパネルだけ金色が鮮やか。
西面 聖セルギウス
着衣の衣文は襞が直線で表されるが、文様は襞に関係なく付けられている。平安仏画を見ているようだ。

身廊西側を振り返る。午後に見学したので、西正面の窓から光が入って明るい。
しかしながら、身廊西端のモザイクは暗くて写りが悪かった。

聖ディミトリオスと4人の聖職者たち 5-6世紀
1917年の火災後に発見された(『SAINT DIMITRIOS』より)
中央がディミトリオスで、二人の聖職者の肩に手を載せている(『SAINT DIMITRIOS』より)。

南側廊西壁 聖ディミトリオスに寄進する人々 6世紀
『ビザンティン美術への旅』は、聖ディミトリオスに二人の人間が寄進をしている。聖者の正面観と、寄進者の動的なポーズが対照的だが、この聖者はイコンに描かれた聖者であり、いわば画中画であるという。
聖ディミトリオスの右背後にも人物がいる。当時イコン画は教会の外に持ち出されて、喜捨を募るという習慣があったのだろうか。
地面は黄緑色だが、人物の足元から緑色の影が出ている。

身廊とナルテクスを仕切る2本の円柱にかかる三連のアーチ
その南壁面には格子文が描かれている。
『SAINT DIMITRIOS』は、1474-1493年のビザンティン時代のカレンダーという。
装飾ではなくカレンダーだった。ところどころに記された文字からそのことがわかるらしい。
同書は、アーチ下面は大理石のモザイクによる幾何学文様。灰色・金・青の明るい色の組み合わせという。
これは縞文様の大理石をV字形に並べたものだろう。
その隣には大理石を三角形に切って8個で円形にしたものが3個X6列半並び、隙間には正方形と三角形を組み合わせた十字形の濃い大理石を埋めている。更に黒っぽい色で縞文様を着色しているようだ。

身廊と側廊を隔てるアーチ列にも、同じような文様があった。
しかし、これは大理石ではなくフレスコだと思って見ていた。大理石のような、平たい切石を組み合わせて曲面を構成しても、滑らかな面にはならないが、これらのアーチ下はその不自然さがなかった。

三重線の正方形の中にも小さな正方形がある。それを斜めに並べている。
平行になった縞文様の大理石を中央を菱形にし、その外側は斜めに並べていったかのよう。

南壁の大きなアーチ形窓が並ぶ中程には、半円形の小さな窓が一つあって、その周囲にフレスコ画が残っていた。
右上の方は屋根のある列柱廊を描いている。
その上には十字架。ひょっとすると上段にはキリスト伝が描かれていたのかも。
左側には騎乗の人々と円形に門のある城壁のようなものが描かれている。
『SAINT DIMITRIOS』は、騎乗の皇帝は頭光をつけ、簡素な服装で随者たちと共に街に凱旋しているように右手を挙げ、祝福のポーズをとっている。ユスティニアヌスⅡのテッサロニキ入城を表していると思われるという。

アギオス・ディミトリオス聖堂は5世紀の創建。7世紀の再建でも6世紀のモザイク画など残ったが、新たに作られたものもある。その後にもつけ加えられたフレスコ画ももあれば、1917年の火災で壁面から現れたモザイク画やフレスコ画もあった。
しかし、この聖堂にあるものは、これだけではなかった。

テッサロニキ2 ビザンティン時代の城壁← 
                   →テッサロニキ4 アギオス・ディミトリオス聖堂2 クリプト

関連項目
バシリカ式聖堂の起源はローマ時代のバシリカ
イコノクラスム以前のモザイク壁画6 アギオス・ディミトリオス聖堂2
イコノクラスム以前のモザイク壁画5 アギオス・ディミトリオス聖堂1
テッサロニキ9 アギア・ソフィア聖堂
テッサロニキ8 パナギア・アヒロピイトス聖堂3 モザイク2
テッサロニキ7 パナギア・アヒロピイトス聖堂2 モザイク1
テッサロニキ6 パナギア・アヒロピイトス聖堂1 フレスコ画
テッサロニキ5 アヒロピイトス聖堂まで街歩き
テッサロニキ1 ガレリウス帝の記念門と墓廟

※参考文献
「地中海紀行 ビザンティンでいこう!」 益田朋幸 1996年 東京書籍
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社
「SAINT DIMITRIOS」 IOANNIS C.TASSIAS 2007 DIMITRIOS ALTINGIS