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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年8月19日水曜日

サマルカンドで街歩き1 レギスタン広場からシアブ・バザールへ


レギスタン広場には3つのメドレセだけでなく、墓石の露出したダフマや円形のチャルスーがある。

ティリャカリ・メドレセとシルドル・メドレセの間の通路がビビ・ハニム・モスクやシアブ・バザールへの近道となっており、そこにシャイバニ族のダフマやチャルスーがある。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、チンギス族の一つであるシャイバニ族は、100年ほどサマルカンドを支配していた。チムール族時代に建築された建物よりも優れた建物を作るために、サマルカンドの中心にいくつものメドレセを建築した。
16世紀の初め、レギスタン広場の北東のチョルスという市場の十字路に、シャイバニ・カンの命により、アリヤというメドレセが建築された。
しかし、時が流れ、シャイバニ族が建設した建物は崩壊した。チムール族によって建築された建物と比べ、シャイバニ族の建物はほとんど残っていない。
1510年、メルブ近郊の戦闘で殺されたシャイバニ・カンの死後、首を切られた彼の遺体はサマルカンドに移され、アリヤのメドレセの中心にある、大理石で外装されたダフマに埋葬された。そこには1504年に殺されたシャイバニ・カンの弟も埋葬された。
シャイバニ・カン時代に、そのダフマはシャイバニ族大きな墓地となった。1509年には、ブハラからシャイバニ・カンの母の遺骨が移され、このダフマに埋葬された。
このダフマは数度にわたり移転したが、最終的に20世紀にはティリャカリとシルドルの間に建てられた。現在ダフマの敷地には墓石があるという。
ダフマはゾロアスター教では鳥葬を行う施設だが、イスラームでは霊廟に近いものだったのだろう。
同書は、これらの墓石の位置についてはシャイバニ族のダフマ図に、マフムド・スルタンの2つの墓石(1+1a)、シャイバニ・カン(2)、ハムザ・スルタン(3)、マフディ・スルタン(4)と数字で表示しているという。
他にも一族の子孫などが葬られているという。
それぞれの墓石には、コーランの章句などが刻まれている。
ダフマを過ぎてチョルスへ。
同書は、チョルスというと、主に、中世サマルカンドのドームのあるバザールのことである。チョルスはレギスタン近くの、ある6つの道路の辻に位置していた。現在、サマルカンドは全く変化したが、チョルスは昔のまま、レギスタン広場とバザールを繋ぐ道にある。
現在、中世のチョルスは残っていない。新しい建物は、ドームのあるアーチ型のティムとなった。それは、18世紀後半に、ブハラの統治者であったシャフ・ムラッドによって建てられたティムである。ティムの建物は、高いドームが付いている多角の部屋となっている。そこからは、6つの廊下が分岐している。その廊下の天井には、小さなドームも付いているという。
六角形の建物で、一つの面が一つの部屋になって、それぞれ小さなドームが付いていて、中心に大きなドームのあるホールがあるということかな。
傍を通り抜け、
ティリャカリのドームを見ながら、
進むにつれ、シルドル・メドレセのドームと東側のイーワーンの位置関係が変わっていく。
だだっ広い広場のような道路を渡り、
街路樹の下を歩いて行く。振り返ると木々の間にチョルスとシルドル・メドレセ。
アムール・ティムール時代の地図で見ると、ウルグベク・メドレセからアハニン門へと向かう道に当たる。

左前方にはティリャカリのドームとはまた違ったドームとイーワーンの裏側が見えてきた。
それがビビ・ハニム・モスクの主ドームだった。
新しい商店(土産物屋)街を抜けると、ビビ・ハニム・モスクが見えてくる。

ビビ・ハニム・モスク(地図ではアムール・ティムールのジュマ・モスク)の見学後、
シアブ・バザールへ。
ビビ・ハニム廟が横から見える。廟を囲んでメドレセもあった。

ナンや地元のお菓子を売る店は別棟、ビビ・ハニムに近い方にある。
伝統的なお菓子が食べたいとのぞき込む。
サマルカンドのナンは美味しいと評判。でも時間がたつと固くなる。

そしてコンクリートの屋根の架かった売り場。入ってすぐにドライフルーツ屋が並んでいる。
赤いアンズに中にくるみを挟んだ茶色いアンズ、メロンの皮、2色のレーズンなど。

奥にはこんな建物が。
その前に座り込んで、自家製のヨーグルトを売っている人たち。
中には乾燥ヨーグルト(クルート)売り場、冷蔵庫に入れて置けば何年ももつ。
そして蜂蜜売り場。
立ててある木の枠は巣蜜。東トルコに行って以来の我が家の好物。
野菜売り場は一段下がったところに。旅人には無縁のところ。

バザールを出ると、アフラシアブの丘のかかりにハズラト・ヒジルのモスク。
『中央アジアの傑作サマルカンド』は、モスクは、偉大なハズラト・ヒジルに因んで名がつけられている。ハズラト・ヒジルはイスラム教の聖人と旅人の庇護者である。伝説によれば、ハズラト・ヒジルこそサマルカンドの庇護者であるイブン・アッバスを助け、クッサムは絶命の危機を避けることができ、永遠の命を得ることができたと考えられている。
現存しているモスクは、1854年に、中世に作られたモスクの基礎の上に建築されたという。

                  →サマルカンドで街歩き2 アク・サライ廟を探して

関連項目
ビビ・ハニム・モスク1 外観と中庭
ビビ・ハニム・モスク2 主モスク
サマルカンドで街歩き3 ルハバッド廟1
サマルカンドで街歩き4 ルハバッド廟2
サマルカンドで街歩き5 レギスタン広場へ


※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ A.V. 2008年 SMI・アジア出版社