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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年12月14日月曜日

クニャ・アルク1 東門から入る


ヒヴァのイチャンカラ(内城)について『ウズベキスタンの歴史的建造物』は、16-17世紀にそれはヒヴァの境界であった。イチャン・カラは長さ2200m、高さは7-8mで、土塁で囲まれている。
4つの壁の真ん中には、門(ダルワザ)がある。アタ・ダルワザの西門はクニャ・アルクの横、バフチャ・ダルワザの北門はウルゲンチにいく道路沿い、パルワン・ダルワザの東門はハザラスプとアムダリヤ川にいく方面、及びトシュ・ダルワザの南門はカラクム砂漠にいく方面にあった。西門は1920年に破壊されて、1970年代に再建されたという。
一周で2200mという、小さな町である。

その西門と東門を結ぶ通りに沿って、主な建物が並んでいる。西門入ってすぐ左にある高い壁は、クニャ・アルクの周壁である。

⑥クニャ・アルク(古い宮殿) 17世紀
同書は、クニャ・アルクはイチャン・カラの内側の城塞である。それは17世紀にムハマッド・エレンクハン(1687-1688)によって建立された。クニャ・アルクは18世紀の終わりまでに高い壁に囲まれ、「都市の中の都市」であったという。
モハメド・アミン・ハンのメドレセやカルタ・ミナーレは朝は日陰になっているが、クニャ・アルクの南壁には朝日がよく当たる。
城壁は日干レンガで造られ、表面は粘土などで補強されている。
上のウロコ状の飾り(とても銃眼胸壁には見えない)の一つだけ、レンガが露出したままになっているが、これは、完璧なものは嫉妬されるというウズベクの人たちは考えていて、ワザと不完全に仕上げるという風習によるものらしい。壁自体は日干レンガだが、頂部の飾りは焼成レンガ。
薄い壁の端には塔がある。
毛皮の帽子屋(別のところで撮影)。
一番下のものはものすごく大きいけど、これが本来のヒヴァの帽子という。白は夏用、黒は冬用とか。
夏は、まず大量の水を飲む。大きな帽子を被り、分厚い服を着る。当然大量の汗をかく。するとそれで涼しくなるのだとか。
『ウズベキスタンの歴史的建造物』には、昔の兵士たちの写真があった。黒い帽子なので冬かな、服は薄いけど。

城門前からカルタ・ミナーレを振り返る。
左の小さな建物に本屋が入っていて、後に私にとって貴重な本を2冊買うことになる。
城門の前は広場になっていて、その東向こうには⑲モハメド・ラヒム・ハンのメドレセ(1876年)。
モハメド・ラヒム・ハンのメドレセは結構大きい。
その左手にはずんぐりむっくりのミナレットが。⑳トゥラブ・トゥラ・ミナレットというらしく、モスクはもうなさそう。
広場の北側には、パン焼き窯や竈が一対ずつ置かれている。何かのお祭りの時には市民に振る舞われたのだろうか。

そして城門
ここの木製扉は、宮殿だからといって特別に立派ということもないが、やはり浮彫で装飾されている。
平面図で見ると、A:門から入って、
B:中庭に。
モハメド・アミン・ハンのメドレセの門構えとカルタ・ミナーレが覗いている。
地図の平面図でもこの壁は薄いが、元は何か建物があったのかも。
前方の扉口に人がいるが、そこへと向かう手前にC:井戸がある。
中央アジアは太古の昔海だったので、地下水には塩分が含まれているという。


         モハメド・アミン・ハンのメドレセ←  →クニャ・アルク2 謁見の間


関連項目
クニャ・アルク3 アク・シェイフ・ババの見張り台
クニャ・アルク4 モスク

※参考文献
「UZBEKISTAN The Great Silk Road TOURIST MAP」 Cartographia 2009年
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 アレクセイ・アラポフ 2010年