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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年1月6日水曜日

ヒヴァのジュマ・モスク2 内部


ジュマ・モスクはミナレットの東側から入る。

『旅行人ノート⑥』は、壁画の装飾は一切なく、212本のアイワーン(綿密な彫刻が施された木柱)が木製の梁を支えている。屋根には明かり取りの小窓が2ヵ所開いているだけで、室内は薄暗く、それが林立するアイワーンとあいまって実際以上の奥行きを感じさせる。アイワーンの一部には、近郊の廃墟となった都市のものが利用され、特にその中の4本は10世紀前後と、現存するホラズムの木彫としては最古のものという。
列柱廊をアイワンと呼ぶのかと思っていたが、円柱そのものがアイワーンだった。

入口を入ると暗い。低い天井のせいでもあるし、天井を支えるアイワーンが視界を遮っているからでもある。

右側にはミナレットへの登り口がある。大抵のミナレットは、モスクやメドレセの2階から通路が出ていて、そこから入っていくのだが、ここジュマ・モスクではモスクの壁に直接入口が開かれている。
入るとまず、アイワーンの数に圧倒される。次に、平天井の梁間には立体的な装飾があることに気付く。
この箇所では、八角形が縦に3つ横に3つ、計9つ並んでいた。
日干レンガや焼成レンガの建物は、ドームやヴォールト天井にするしかないが、これだけ密に円柱が並ぶ木製の天井ならば、陸屋根にすることができる。これがホラズムの伝統建築?
振り返って小窓が並ぶ東壁。
柱の長さによって、石の台座の高さが異なっている。そして壁に沿って、古くなった円柱が並んでいる。
このような4本の横木が並んだ格間が縦横交互に並んでいるのが一番多い。
その北側、つまり入口近くには、私の好きな正方形を斜めに入れ子にしていったラテルネンデッケが、縦横3つずつの計9つ並んでいた。
しかし、ラテルネンデッケというのは明かり取りのために頂部は開いているはずなのに、ここでも閉じている。装飾としてのラテルネンデッケでしかないのだった。開いていればもっと明るいのに。
北側の列柱。左側にある2つの天窓に近づくと明るくなる。

東側の天窓
梁間2つ分ずつの天窓近くには、古い円柱が集められている。
2つの天窓の間にある墓廟の雛形かと思うような小さな白い妙なものは、礼拝者に飲み物を配る水槽だとか。

西側の天窓。
円柱には、1本1本異なった文様、あるいはその組み合わせがある。古いもの、新しいもの、それぞれで、212本もあるので、写し残り、見残しがたくさんあるだろう。
2つ目の天窓近くにも、3X3個ラテルネンデッケの格間がある。
ラテルネンデッケが好きなので写しまくった。
そういうと、ウズベキスタンではまだラテルネンデッケの天井のある建物を見ていない。民家などに残っていないのかな。

クニャ・アルクのモスクでもそうだったが、ヒヴァではミフラーブは南壁に造られている。
天井は一段高くなっていて、外から見た出っ張りがこの天井だったと分かった。東西に小窓があって、そこからの光と白い壁面で、結構明るい。
ミフラーブの漆喰には植物文の浅浮彫が。
ミフラーブのあるところから左側の森
木製のミンバル(説教壇)
正面の森。
2つの天窓から入る光は遠い。
右側の森。
人の少ない列柱の間を歩いていると、ゆったりとした気分に浸ることができる。
しかし、ヒヴァにはこの日1日しかいないので、時間を有効に使わねば。
アイワーンの写真を撮って列柱の間をコマネズミのように歩き回った後はミナレットへ。

どこかの壁にこんな漆喰装飾があった。18世紀に再建された時は焼成レンガ積みの壁面にしたが、以前は壁一面が、こんな植物文で覆われていたのかも。

アイワーンの浮彫装飾については関連項目へ

  ヒヴァのジュマ・モスク1 外から眺める←   →ヒヴァのジュマ・モスク3 ミナレットに登る

関連項目
ヒヴァ、ジュマ・モスクの木柱2 イスリミ(植物文)とギリヒ(幾何学文)
ヒヴァ、ジュマ・モスクの木柱1 古いもの
ラテルネンデッケといえば敦煌莫高窟だが
キジルやバーミヤーンのラテルネンデッケは
ラテルネンデッケの最古はニサではなくトラキア?

※参考文献
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 A.V.アラポフ 2006年 SANAT
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人