お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2016年3月10日木曜日

マルグシュ遺跡4 王族の墓巡り


広大なマルグシュのなかのゴヌール遺跡を見学している。
トゴロク21号は神殿遺跡、ゴヌールは三重の壁に囲まれた都城遺跡である。
その南側には埋葬施設が多く発掘されている。
『シルクロードの古代都市』は、ゴヌルの神殿・王宮の建物群の西側に10ha以上の広大な墓地があった。サリアニディは墓の密度から見て、この墓地に3200人以上のゴヌル人が埋葬されたとしている(2005年現在)。墓穴の側壁を掘って埋葬した墓が75%を占め、地下直下式が14%、日干煉瓦積みの墓室が2.5%であったという。

王の墓地を見学する。
ヴィクトールさんの後について歩いて行くと、小屋が右前方に見えてきた。
小屋1
まさか小屋に入るとは思わなかったので、全体を写し損ねた。
中には1歳馬が土器を伴って丁寧に埋葬されていた。
馬の傍に高坏や注口のある壺、コップのようなものも副葬されていた。よほど大事な馬だったのだろう。王の死に伴っての殉葬なら、馬に副葬はしないのでは。
王族の墓地から出土した土器は殆どが薄手だった。これらは、高温で焼成することが困難な円窯ではなく、燃焼室のある窯で焼いたものだろう。


続いて小屋2へ
途中に発掘された遺構があるが素通り。
小屋の裏手にも遺構は広がっている。

ヴィクトールさんは別の墓壙に入って、墓の構造や、どこでどんなものが出土したかを熱心に説明してくれた。
日干レンガで造られた長方形の墓が4つに分かれていた(ヴィクトールさんの背後)。そして前方に複数の人が横向きに埋葬されていた。副葬品も多く出土したという。

小屋2(第3900号墓)に入る。
丸い墓壙は全体を撮るのが難しかった。

ぐにゃりと曲がったものは青銅製の車輪の枠。当時、他の地域では見られなかったという。
マリの博物館に展示されている複製品の画像はこちら
車輪と馬の骨が複数出土していた。馬ともども馬車を副葬したのだろう。
青銅製の大鍋も
 そしてスコップも。

小屋から南へ向かって振り返る。
この辺りには小さな穴がたくさんあった。
道具のスコップは4000年前と変わらないような。
現在発掘中。人間や動物が埋葬されていた。
動物
人間。副葬品は頭の上側に置かれていた。
迎えの車に乗って別の小屋へ移動。
横向き3、縦向き1、計4つの細長い墓壙に動物の骨と薄型の土器が発見された。
その一つ。
馬よりも小さな動物は、日干しレンガの台に置かれ。土器はその周囲に置かれていたらしい。
土器は薄手の高級品。
一方、外の貯蔵室らしきところに並んでいるのは大きな壺ばかり。

同書は、全体の3/4以上の墓が盗掘されていた。それでもこの墓地から装身具など大量の副葬品が発見された。サリアニディはバクトリアとマルギアナの出土品を比較して両者が互いに類似していることに着目し、「バクトリア-マルギアナ考古学複合」(BNAC)説を唱えた。この文化(文字がないので「文明」とは言えない)の年代については、前2000年頃とする説が有力であるが、しかし、決定的というわけではないという。

遠方には復元された王宮内壁が並んでいた。

同書は、マルグシュの遺跡全体は住民によって、なんらかの理由で徐々にではなく、ほとんど一度に放棄されたと考えられているという。
その時期が、ガイドさんが言っていたマルガブ(Murgab)川の流れが変わって衰退したため、場所を変えて建設されたのがメルヴということではなかったのかな。

帰路にすれ違った羊さんたち。


     マルグシュ遺跡3 ゴヌール遺跡の水利施設と初期の窯址

関連項目
マルグシュ遺跡2 青銅製印章
マルグシュ遺跡の出土物1 青銅製車輪の箍(たが)
マルグシュ遺跡2 王宮
マルグシュ遺跡1 王宮へ

※参考文献
「シルクロードの古代都市 アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波書店(新書)