お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2017年3月6日月曜日
テヘランからカーシャーンへ
広大なイランを周遊してきました。あまりも多くのものを見てきたので、総てを詳細にまとめるのは不可能なので、取り敢えず、テヘランから出発するところから始めることにします。
テヘランからイスファハンへ。
Google Earthより
まずはテヘラン南の郊外にあるホメイニ廟へ。まだ完成していないという。
駐車場から遠望した雪の残るアルボルズ山脈
そして独立峰でイランの最高峰ダマーヴァンド(標高5660m)は、テヘランを出発する時にはくっきりと見えていたのに、時間がたつと霞んでしまった。あの電線がなければ・・・
イランではテント泊可のところが結構あるという。ここでも家族が食事中だった。
聖地コムを目指す。少し離れるとアルボルズ山脈がよく見えた。ガイドのレザーさんによると、標高2000m以上の山に雪が残っているのだそう。
ひたすら平らな大地を南下していると、たまにはショッピングセンターのようなところもある。
そして、樹木の生えていない山々が。しかも新疆で、そして中央アジアでも散々見てきた古代テティス海に堆積してできた地層がまたしても出現したのだった。
コムに到着すると、専用バスに乗り換えて、
ハズラテ・マアスーメ廟へ。
金色のドームの建物下に、シーア派十二イマーム派の第8代イマーム・レザーの妹ファーティマが眠っているという。
女性のスカーフの規制が緩やかになって、取り締まる警察が解散したのだそうだが、墓廟やモスクの見学となると、チャドルを着なければならない。まず女性は入口までの建物でチャドルを着せてもらう。こういう風に持つのよ、と教えて貰っても、裾が長いので踏んでは転びそうになった。この中に長袖の服・ズボンを着て、カメラ・ビデオ・バッグを首に掛けているので、暑くて大変だった。お陰で何も覚えていない。
続いてカシャーンへ。郊外に出ると、右手には山肌が一つ一つ違う山が。
同じような山でも、先がギザギザだったりすると、やっぱり写してしまう。
この山は古代テティス海の地層ではなさそうと思っていたら、ザクロス山脈だそう。
そして左窓からは古代テティス海の地層と、手前にカラーズ(地下水路)に溜まった土砂を掻き出したものが並んでいる。
奇岩の山々が現れては消えていく。
風景に魅入っているうちにインターを出てカーシャーンに到着。
カーシャーンは前5500年の町。元の町は埋まっていて、発掘はわずかだという。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、イランにおいてタイル装飾が最も著しい発展を見た時代は、12世紀後半から14世紀前半までの200年間、イランが異民族に征服されていたセルジューク朝~イルハン朝の時代であった。この時代には様々な技術によるタイル装飾が建築物の内壁・外壁・床を被うようになっていた。
こうした様々なタイル装飾の洗練・隆盛は、セルジューク朝のトルコ人やイルハン朝のモンゴル人など異民族の君主が建築にタイル装飾を特に好んだからというよりも、当時イランに建築装飾として大量にタイルを供給しうる陶器生産の一大中心地が存在していたからである。その街はカーシャーンといい、イランの現首都テヘラーンと古都エスファハーンとを結ぶ線のちょうど中間地点にある、イラン中央部の都市である。カーシャーンがタイル生産にいかに大きな役割を果たしていたかは、ペルシア語でタイルを指す「カーシー」という語からも明らかである。カーシャーンの陶工一族の祖先は、ラスター彩技法を独占してイスラーム乳域内を移住していた陶工たちであったと考えられ、彼らは12世紀の70年代頃、ファーティマ朝エジプトからカーシャーンに至ったらしい。カーシャーンは既に13世紀初めにはシーア派(預言者ムハンマドの娘婿アリーの後継者を信奉するイスラーム分派)信仰と陶器生産で知られていたという。
その陶器生産の伝統は現在でも続いており、カーシャーンに近付くと道路の両側にタイルや陶器の工場が続いていたが、あいにく写真はない。
このような文に出会うといつも思うのは、燃料は何だったのかということである。中国の黄土高原が、殷・周時代に青銅器制作の燃料の薪にするために、樹木を切り尽くしてしまったために樹木のない山になってしまったというのはずっと昔に聞いた話だが、この地でも燃料として木を伐採してしまい、山に木がないのだろうか。それとも、すでに石油を燃料にしていたのだろうか。
ラスター彩についてはこちら
『タイルの美Ⅱイスラーム編』は、セルジューク朝の時代、イラン中央部の町コムでは、大規模なモスクの造営が進められ、その建築装飾に関して大きな役割を担った町があった。それは現代にいたるまで、ペルシア語でタイルのことをカーシーというように、当時その技術の優秀さと、ラスター彩という独特の装飾技法で、中近東にその名を馳せた町、カーシャーンであった。
現在のカーシャーンの町には、かつてイランの陶都として知られた面影は、まったく見られないという。
Google Earthより
市街地へ向かっていく。食料品店の前でのんびりとおしゃべりを楽しむおじさんたち。
見学の前に昼食。料理も写したが、たぶん記事には載せる余裕がないので、ここで紹介しておく。
イランのレストランでは、ティシュ・ペーパーの箱がテーブルに置かれている(どこでも)。そして十中八九、まずヨーグルト(ニンニク入り、左のパック)とサラダが出てくる。このヨーグルトのお陰か、最後までお腹を壊す人はいなかった(と思う)。次にスープ(写し忘れた)。
そしてメイン。この時はタッチンというお焦げご飯。サフラン、クコの実、鶏肉が入っていて美味。デザートも出た。
食後は歩いて遺跡に向かう。
ナンが袋に入れてぶら下がっている。乾燥しているので、レストランで出たときは柔らかいのに、すぐにパリパリになってしまうということが、これから先もずっと続くことになった。
→テペ・シアルク(Tepe Sialk)遺跡
関連項目
ラスター彩の起源はガラス
参考文献
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市立オリエント美術館
「タイルの美Ⅱ イスラーム編」 岡野智彦・高橋忠久 1994年 TOTO出版