お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2017年3月9日木曜日
テペ・シアルク(Tepe Sialk)遺跡
昼食後に見学したのは、カーシャーンの中心から外れたテペ・シアルク遺跡。西にはザクロス山脈が迫っている。この山脈のお陰で農耕が可能だという。
『季刊文化遺産8古代イラン世界』は、氷河時代が終わりを告げた今から1万年前の西アジアは、狩猟採集経済から農業経済への大転換期を迎えていた。小麦や大麦、豆類を栽培し、山羊、羊を飼うという地中海式農業はシリアからイスラエルにかけての東地中海沿岸地域で成立したが、その生活様式はやがてイランにも広がってゆく。
ザクロス山脈中の盆地に定住的な農耕村落が形成され、続いてイラン高原の中央部にはテペ・シアルク、東北部のオアシスにはタペ・サンギ・チャハマックなどに代表される集落が営まれるようになる。泥レンガで家屋を作り、酸化鉄の顔料で文様を描いた彩文土器、石を打ち欠いた刃を埋め込んだ木製や骨製の鎌、豊穣を祈念する素焼きの女性土偶など、西アジア一帯に共通する文化が見られるようになる。今から8000年ほど前のことである。
テペ・シアルクは紀元前6000-1000年頃に住まわれた遺跡で、中央イランの文化変遷をよく示しているという。
『古代オリエント事典』は、イラン高原カーシャーン市の南西にある遺丘、イラン先史土器の基準遺跡。南北二つの丘からなる。北丘はⅠ-Ⅱ期、南丘はⅢ-Ⅳ期に分けられる。北丘のⅠ期の層からは練り土壁(pisé、ピゼ)の建物と淡黄色彩文土器、Ⅱ期の層からは平凸日干煉瓦(plano convex)壁の建物とともに赤色彩文土器、石器、銅製品等が出土したという。
遺跡内の発掘品展示コーナーの札には、北丘7500年前、南丘6100年前とあった。
テペ・シアルクの名は、岡山市立オリエント美術館の収蔵品の彩文土器などで知ってはいたが、その出土地に来ることができようとは。
Google Earthより
同書は、南丘のⅢ期には淡黄色動物彩文土器が盛行、またロクロで製作された土器や銅製品も多く、銅鋳造も行われていた。Ⅳ期には灰色・赤色無文土器が多く、文字や円筒印章の使用などメソポタミアとの関係が深まっている。Ⅴ期には墓地Aとよばれる土坑墓群、Ⅵ期には墓地Bとよばれる石槨墓群が多数発掘され、青銅器、鉄器、金銀・貴石等の装身具、円筒印章などが出土したという。
Google Earthより
その南丘を見学した。門の左側に遺跡の説明にも日干しレンガが風化したようなものが使われている。
結界や壺の展示がなければ土の山のよう。
左に目を移すと大きく盛り上がった遺構の手前に屋根の架かった場所から見学する。
まず小さな展示室へ。
貯蔵用壺 シアルクⅢ期(前4千年紀)
いままで各地で見てきた貯蔵用壺は、こんなには出っ張っていなかった。
形によって保存するものが決まっていたのかな。
シアルクⅢ期 カーシャーン県アザド大学
たぶん上部の逆「く」の字形のものは、首の長い鳥が並んでいるのを表しているのだろう。
大きさも、形も、文様も様々。
全部見終わっていなかったが、遺構を見に行くということで外に出た。まずは大壺。
なんとパルティア時代のものだった。
札にはAbbasse Ettemad氏が復元したと書いてある。
いよいよ遺跡に足を踏み入れる時が来た。まずは屋根の架かった遺構へ。
そこは墓地だった。
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、中央イランではカシャンの郊外にあるシアルク遺跡で鉄器時代文化が知られている。この遺跡は金石併用期から青銅器時代初期にかけて栄えていたが、その後廃棄され、鉄器時代になって新しく5、6期の建築が築かれた。大きな石積みの基壇や建築の一部が明らかにされたが、部分的な発掘しか行われておらず。その内容は明らかではない。しかし南側にこの人々が残した墓地があり、鉄器時代1期(前1200-前1000年)をシアルクA墓地文化、2期(前1000-800年)のものをシアルクB墓地文化と称している。
A墓地文化は単純な土壙墓で、暗灰色研磨土器を伴い、武器や金や青銅の装身具が副葬されている。馬具は伴っておらず、そのような習慣がなかったというよりは、馬を大量に飼育できるほどの規模の大きな集落ではなかった可能性が高い。
続くB墓地文化になると様相はなかり変化する。墓は石の板を組み合わせた石棺墓になり、男性の墓には大量の馬具や馬具飾り、武具が副葬され、女性の場合には金、銀、青銅の装身具、鏡、化粧容器などが納められる。北西イランに発達した馬匹文化が中央イランにまで及んできた様相が明らかにされたという。
せっかく入ったのにこの左手は写していない。木材があるが、当時のものか、屋根を架けるためのものか不明。
ガラスケースの中に人骨があった。その説明には、男性、35歳とあった。
別の側のもう1体の人骨は子供。どうやらここは鉄器時代1期(前1200-前1000年)の土壙墓A墓地のよう。
その奥にはジッグラト(英語ではziggurat)。メソポタミアの勉強を始めた頃はジグラートと表記されていたが、確かNHKで2000年に放送された『四大文明』でジッグラトと言っていたので、ジッグラトと呼ぶようになった。しかし、現地ガイドや添乗員の金子貴一氏(キルギス旅行でもお世話になった)はジグラットと言っていた。
このジッグラトについて『世界美術大全集東洋編16西アジア』は前1000-800年としている。
展示室にあったジッグラトの想像復元図は3段
平たい日干レンガが積み重ねられているが修復材では?
こちらはかなり土に戻っているのでオリジナルのよう。
ここもオリジナル。
木道はジグラットから離れていく。その先には矩形の部屋または建物跡が幾つか続いている。
ジグラットの別の面へ。
オリジナルと修復の日干レンガ
日干レンガの間に接着剤としての土の層が。
ジッグラトの裏手に出た。ガイドのレザーさんはもうあんなところまで行っている。
木道の右側のもこもこと盛り上がっているところは、日干レンガのヴォールトが並んでいるような。
ヴォールト天井というよりも穴居のよう。でも、日干レンガを積み上げたのは確か。
大抵はあちこち写しながら進むので、グループからどんどんと離れては追いかけることになる。
前に行く人が写真を撮った場所から私も写してみる。日干レンガの建物の残骸としかいいようのないものが。
金子氏の分厚い旅日記には木道の端から撮った写真があったが、この向こう側は落ち込んでいた。門でもあったのかな。テペ・シアルクが防壁に囲まれていたという記述はどこにもないが。
こちらはかなり修復が進んでいる。上の丸いものに屋根を架ける準備をしているらしい。
レザーさんによると、左下の四角い穴から見えているのは紀元前4100年前の住居の基礎、壁で、1935年にロマン・ギルシュマンが1年かけて発掘した。彼の名が向こう正面の壁に嵌め込まれた小さなプレートに刻まれている。高さの異なる層それぞれが時代も違っていて、イスラーム時代になるまで、つまり今から1200年前まで人が住んでいた。ササン朝時代にも栄えていたのだという。
確かにテル(遺丘)なので、下の層ほど古い。
正面の小高い遺丘の向こうにも遺跡があった。これが北丘。小さいが高く積んだ遺構が見えている。
見学は終了し、入口へと戻っていく。いつものようにものすごいパノラマ合成。
ジッグラトの背後の遺構。
ジッグラトの内部への入口?いや展示室にあった復元図ではアーチ形の壁龕のようだ。
A墓地の裏側。木材は屋根に置かれたりしている。やっぱり調査や修復のためのものだ。
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関連項目
ジッグラトがイラン高原の山だったとは
テペ・シアルクに日干しレンガの初期のもの
参考文献
「古代オリエント事典」 古代オリエント学会編 2004年 岩波書店
「季刊文化遺産8 古代イラン世界」 1999年 財団法人並河萬里写真財団
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館