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中央アジア各国の旅行記が完成したので、西アジアのイラン旅行をまとめています。
その中で気になるものについては、忘れへんうちにに記事を載せていきます。

2017年12月7日木曜日

タブリーズ マスジェデ・キャブード(ブルー・モスク)


タブリーズは大きな街だった。
『ペルシア建築』は、ガーザーン・ハーンの宰相たるラシード・ウッディーンは、タブリーズの地に、古代の大複合体をも凌駕するような一つの大学都市を造営した。その中には24のキャラヴァンサライ、1500の店舗、3万の住居があり、各国から集まってくる学者たちのための特別の宿舎も用意され、また病院、施薬所、庭園なども整っていたとのことで、建造物は「堅固さと力強さにおいて」すべての類例に勝るものであったという。
Google Earthより
最初にマスジェデ・キャブード(Masjed-e Kabud)を見学。
Google Earthより
バスはどのように街中に入っていったのかわからないが、ホメイニ通りを西進して、マスジェデ・キャブードの2つのドームが見えたところで停車した。
南側に残る回廊から見えるモスク。
小さなドーミカル・ヴォールトの続く東回廊は修復されたもの。

モスクは2つのドームがある。
「GANJNAMEH6」は、唯一の紀年銘は玄関の東支柱にあり、870年を示す。テュルク系黒羊朝のカラ・ユースフの息子であるジャハンシャーの建立とされる。ジャハンシャーの妻ジャン・ベイゴム・ハトゥンあるいは娘のサレヘ・ハトゥンの発願によると言われている。
例外的に町外れに建立されたモスクで、ファサードの両端にタイルで覆われた細いミナレットが建造された。ドームと壁面の内側は、空色・藍色・黄色の極上の彩釉タイルにより、コーランの引用文と植物文様で荘厳されたという。
870年がイスラム暦なら西暦1465年、イラン暦なら西暦1491年になる。現在はイランだが、当時アゼルバイジャン地方はティムール朝や黒羊朝、その後白羊朝などが相争っていたのでイスラム暦をとり、西暦1465年とする。
『GANJNAMEH6』は、記録によると、ブルーモスクは870(西暦1465)年に完成したが、付属の建物は建設が続いていた。872年、ウズン・ハッサンによってジャハンシャーが殺害された後は、建設が中断した。ウズン・ハッサンの息子スルタン・ヤアクーブが完成させたという。
黒羊朝を滅ぼした後、白羊朝が完成させたモスクだった。
南ドームの東外壁にタイル装飾が残っている。
向きは反対だが、三次元投影図(『GANJNAMEH6』より)によると、大ドームは、極浅い二重殻ドームである。
『イスラーム建築の世界史』は、オスマン朝では、15世紀になると、大ドームを前後に連ね、両側の小室とあわせ、T字形に一体的とした礼拝室を設けたモスクが造られる。このドーム配置は、ティムール朝のタブリーズに影響を与えたという。
そのティムール朝から離脱して独立した黒羊朝は、そのモスクの範をティムール朝に求めたのだった。

焼成レンガの幅の広い組紐で作った幾何学文様にはモザイクタイルによる植物文様やカリグラフィーが嵌め込まれている。
モザイクタイルの詳細については後日
今では高さも覆っていたタイルも失った、北東角の細いミナレットを曲がって北側の入口へ。
レンガの壁が続いていたが、突然モザイクタイルの壁面が出現。
なんと、北側のファサード(南がキブラ壁なので)だけが度重なる地震によるタイルの剥落から免れたのだった。とはいえ、修復の白い漆喰が目立つ。
間近でしか見られず、離れてファサードから写した図版を『IRAN THE ANCIENT LAND』から拝借。
入口イーワーンを見上げる。ムカルナスではなく、アーチネットによる曲面架構。
ファサードのモザイクタイルについても後日

前廊から大ドーム室へ。
隔てのアーチ側壁にもモザイクタイル。
前廊のドームは、4つの尖頭アーチと、各間の4つの小さな尖頭アーチ、合計8つの尖頭アーチの上に作られた円周にドームが乗っている。
側壁の腰壁にもモザイクタイル。
大ドームはレンガ積みが露出している。
四方の4つの開口部の尖頭アーチと、四隅のスキンチの尖頭アーチは同じ大きさで、8つの尖頭アーチが、八角形や十六形をつくらずに、直接大ドームを支えている。
東の尖頭アーチと壁面にはモザイクタイルがよく残っている。
四隅のスキンチの下にはこのようなこぢんまりしたイーワーンと小部屋が2つずつ造られている。
北入口側の尖頭アーチ。
大ドーム室から南ドーム室へと移動していて頭上を見上げると、信じられないものがあった。それは、亀甲繋文や植物文様などが金彩された紺色タイルで覆われた、浅いイーワーンだった。
南ドームは大ドーム室より小さいし、低い。
何故かミフラーブを写していなかった。
『GANJNAMEH6』から拝借したの写真がミフラーブかと思ったが、ミフラーブから写した北側のイーワーンだったことが、自分の写真から分かった。
タイルの残り形が似ていることから間違いないのだが、同書の図版のおかげで、かなりの部分が修復だと判明した。そして、修復前は、大ドーム室と小ドーム室の間の通路が、壁で塞がれていたことも。
『GANJNAMEH6』の別の図版で見ると、現在のものとはタイルの残り方がだいぶ異なる。それに金箔などはありそうにない。
金彩の亀甲繋文については、ミフラーブの壁龕床に置かれている壁面装飾の断片に見られる亀甲繋文が、紺色の六角形を繋いだだけのものであることからもわかる。
しかし、『GANJNAMEH6』は、イラン暦1301(西暦1922)年、カジャール朝のナデル・ミルザ王子が、小ドーム室について記述している。昔、総ての壁、ドーム内部は金箔で花の文様を表した青いタイルに覆われていたという。
この小ドーム室の紺色に金箔を貼ったタイルというのは、創建オリジナルで、それを修復復元しているのだった。


スルタニーエからタブリーズへ 古代テチス海の地層に酔う
                   →タブリーズ アゼルバイジャン博物館

関連項目
マスジェデ・キャブードのタイル装飾

参考文献
ペルシア建築」SD選書169 A.U.ポープ著 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「IRAN THE ANCIENT LAND」 M.Zeyghami 2013年 Abyaneh Printing House
「GANJNAMEH6 MOSQUES」 1999年
「イスラーム建築の世界史 岩波セミナーブックスS11」 深見奈緒子 2013年 岩波書店