お知らせ

中央アジア各国そしてイラン旅行記が完成し、フランス南西部のオクシタニー地方の旅に入りました。
その中で気になるものについては、忘れへんうちにに記事を載せていきます。

2018年2月15日木曜日

イラン国立博物館5 サーサーン朝時代


サーサーン朝の遺物は広い展示室の角にあり、それぞれがガラスケースに入っているので、光が反射して見にくかった。
壁面に展示された漆喰装飾についてはこちら
女性の一人が指さしているものは、ビーシャプールの遺跡の写真だった。

ビーシャープール遺跡について『古代イラン世界2』は、その息子でもあるシャープールⅠ世(在位241-272)は、260年に再度ローマ軍と交戦しペルシア側に圧倒的勝利をもたらし、特にローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜とし、ローマ軍の捕虜7万人とともにイランに連行している。
捕虜のなかにいた多くの専門技術者や捕虜を動員して都市、道路、ダム、橋などの大土木工事を行ないイラン南部の発展をもたらしている。とりわけ彼の名を冠した都市ビーシャープールは、直線の通りが碁盤の目のように直角に交差する、いわゆるヒッポダモスの考案した西方の様式によって造られた都市として有名であるという。

謁見の間のパネル
遺跡平面図
A:アナーヒーター神殿 B:ハレム C:謁見の間 D:モザイクのある部屋
D:モザイクのある部屋の拡大図と出土したモザイクのあった場所
出土したモザイク画は浅い壁龕の床を飾っていたらしい。
説明は、モザイクのイーワーンと呼ばれている部屋は謁見の間に隣接している。この建物の床は、全面が花や人物のモティーフのモザイクと、花文の文様帯と美しい女性のストゥッコの装飾だったという。
博物館にはモザイクの女性像が2面展示されていた。
左手に花束を、右手に細長い袋を持つ女性立像は、着衣の襞がアケメネス朝期やヘレニズム期の写実的な表現ではなくなってしまっている。
天幕の下でくつろぐ女性像は、暈繝(色のグラデーション)による立体感が見られる。同様にジグザグ文様にもグラデーションを施している。

彫像の写真パネル
説明は、ビーシャープールから4㎞のところに、同じ名称の山があり、そこには高さ7mもの彫像が安置された大きな洞窟があるという。
その写真もあった。
調査する人物と比べても巨像であることが見て取れる。サーサーン朝の王の像は、ビーシャープール近くのタンゲ・チョウガーンをはじめ各地で見てきたが、すべて浮彫だった。このような丸彫りの巨像も造られていたのは驚きだが、戦勝でローマの兵士たちを12万人も連行したシャープール1世が、ビーシャープールの宮殿をローマ兵に建造させただけでなく、こんな巨像も造らせたのだろう。浮彫のシャープール1世像と同じ城壁冠を被っていることからもシャープール1世には違いない。
しかし、それが何故洞窟の中に置かれたのだろう。

柱頭 ワフラーム4世期(在位388-399年) ケルマーンシャー出土
鷲の翼と三日月の前立てのついた冠を被っているので、コインと照合するとワフラーム4世(在位388-399年)のように見える。
ワフラーム4世のドラクマ銀貨 出土地不明 径2.4厚1.5㎝重3.7g イラン国立博物館蔵
『ペルシャ文明展図録』は、鷲装飾の冠をかぶる王の右向き肖像という。三日月の前立てもついているその中の小さな球状のものは、球体装飾の名残かな。
別の面
斜め向きの人物きの冠は小さく、同じ王のものではなさそう。
別の面
斜格子の中に八重咲きの花を配している。珍しい花文である。

施釉壺 スーサ出土
携行用の扁壺で緑釉がかかっている。
施釉壺 スーサ出土
銀化してガラスのよう

ガラス容器 フーゼスタン州スーサ出土
こちらも銀化して施釉陶器にも見える。双耳は鳥頭のよう。
円形切子碗 ギーラーン州ニアヴォル出土
口縁部に銀化が剥がれ、透明ガラスがあらわれている。

ブッラ 6-7世紀
ブッラは球形封泥と訳されている。
『メソポタミア文明展図録』は、無傷で見つかったこのブッラは、粘土製の7個のトークンを封入する容器として使われた。この種の記録物はウルク後期以来契約者の取引を記憶する手段として用いられた。トークンのサイズと形は数を表し、また取引の帳簿に載せる物産をも意味した。疑わしい場合、運ばれた品物と契約した品目が一致するのを確かめるには、ブッラを割ってその中身を目録に記すだけでよかった。いったんブッラが密封されると、まだ柔らかい粘土表面に所有者と役所の円筒印章を転がしたという。
ブッラとトークンの画像(ウルク後期初期、前3300年頃)はこちら
このブッラは大小のスタンプ印章が深く押されている。大きい方は疾駆する草食獣の群、小さい方は頭の草食獣。
トークンは、まだ文字がなかった頃に使用されたものだと思っていたので、ブッラが展示されているケースを古い時代のものだと思って写したのだが、それがサーサーン朝という時代のものとわかり、逆に驚いた。
Wikipediaの封泥は、封泥自体は8世紀に紙が伝わり使用が一般化すると衰退し、代わりに蝋を用いて封をかける「封蝋」として生き残ったという。
そんなに長く使われていたのか。
沢山あっだ、ピントの合ったものは少なかった。
草食獣の他に騎馬人物の印章もある。
騎馬人物は剣を持ち、その周囲には文字とも文様ともわからないものも表されている。
尚、2階ではイスラーム美術の展示があるのだが、時間切れで見学できなかった。

イラン国立博物館4 パルティア時代← →イランガラス陶器博物館 1階

関連項目
イラン国立博物館 サーサーン朝のストゥッコ装飾
ビーシャープール(Bishapur)2 謁見の間
サーサーン朝の王たちの浮彫
イラン国立博物館3 アケメネス朝時代
イラン国立博物館2 エラム時代
イラン国立博物館1 青銅器から鉄器時代

参考サイト
Wikipediaの封泥

参考文献
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 長澤和俊監修 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「世界四大文明メソポタミア文明展図録」 2000年 NHK