お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2008年6月23日月曜日

4日目-4 校洞(キョドン 교동)も通ってみよう


五陵の南門(しかない)を出て、コッマウル韓方病院との間の道を蚊川橋へ。漢方ではなく韓方やね。木造の立派な建物だったが、道路が狭いのと、交通量が多いので写真に写せなかった。
次の目的地は大陵苑だが、古い街並みの残る校洞に寄り道をする。  南川(蚊川)を渡ったところで右折、川沿いに東へ。蚊川は流れのあまりない川で、2日目に慶州博物館から南山仏谷へ行く時に上流を渡った。 川沿いに走っていると北側に財買井が見えてきた、10:23。説明板は、新羅の名将金庾信が住んでいた家の井戸で、いまは井戸だけ残っていて、ここが屋敷の跡であると云われているという。左の方にも古墳が並んでいる。 次に見えてきたのは司馬所。説明板は、朝鮮時代に科挙に合格した地域の生員と進士というヤンバン(両班)に儒学を教えたり、政治に関して討論したりした建物である。最初に建てられた年代は不明であるが、1592年文禄の役の際に焼失されたのを、1741年に重建して、風詠亭と呼ぶようになったという。韓国の建物は屋根ががっしりと重そうな感じ。 川沿いに行くと、ここにもがっしりした屋根がある。向こうの白い車の駐まっているところを左に曲がると2日目に夕食を食べた瑤石宮がある。 そしてどんつきにあるのが崔氏古宅。説明板は、1700年頃に建てられたといわれる。この宗家は月城に沿って流れる南川横の日当たりのいいところに位置し、門脇部屋のある棟、主人の居間・客間に使う棟、母屋、祠堂、納戸などとなっている。本来は99間の屋敷だったが、1970年に主人の居間・客間に使う棟が焼失し礎石だけが残されている。母屋は「ロ」の字形で、門脇部屋は「一」の字形である。祠堂は居間と書堂として使われた別堂の間に配置され、空間的な深さが感じられるという。中をのぞくと新しそうな建物が見えたはずやね。その西隣は校洞法酒(ポプチュ 교동법주)。説明板は、法酒は伝統の酒でこの酒が初めて作られたきっかけは、朝鮮時代の粛宗のときに宮中で飲食を管掌(事務管理)する官職にいた崔国璿が故郷に帰って造ったことからであるという。
この路地を抜けたら大陵苑に行くんじゃね  路地を抜けて右折。しばらく走るとまた右側に古墳群が見えてきた。
あれ、一昨日見た象形の古墳やん 
皇南洞の古墳群だった。 どこから道路を渡ろうかと向こうを見たら骨董屋があった。 土産物屋や観光バスで大陵苑の入口がどこにあるかよくわからなかった。ちょっと行き過ぎてやっと見えた。門の左にある駐輪場に自転車を置き、右の受付でチケットを買う、1人1.500W。
平日でもかなりの人出。暑くなりそうやなあ、10:44。