お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2008年6月22日日曜日

4日目-3 五陵(オルン 오릉 )は楽園


結局五陵の入口は南側にあった。入場料は1人500W。門を入っても王陵は見えない。広いまっすぐな道があるだけ、9:38。  広い道もあるが、近道のようなので、林の中を抜ける。向こうの方に幼稚園くらいの子どもたちが並んで歩いている。 そして見えてきたのは低い柵に囲まれた王陵群。入口でもらったしおりは、この陵は慶州市の南側で南山の西北側にある慶州平野の端に位置する新羅時代初期の朴氏の王たちの塚として知られている。蚊川を境界にして北側の校洞、皇南洞皇吾洞、仁旺洞、路東洞、路西洞一帯の古墳群とは離れて、別途に形成された。5つの塚は新羅の始祖朴赫居世王(パクヒョッコセ 박혁거세)、第2代の南解王(ナメ 남해)、第3代の儒理王(ユリ 유리)、第5代の婆娑王(パサ 파사)の朴氏王4人と朴赫居世王の王妃である閼英(アーリョン 알영)の陵であると伝えられる。境内には赫居世王を祭る崇徳殿とその来歴が刻まれた神道碑があるという。そうそう、第4代の昔氏脱解王陵だけ北の山裾にあった。でも、実際はちがうらしかったけど。
一番古いとされているだけあって、形は素朴やね。 柵の角を曲がると正面になるが、拝殿のようなものが建っていて、その横からしか見られない。どの陵がどの王のかわかっていないらしい。5王の陵墓があるのに、供物台は1つだけとは。 柵に沿って歩く。また角を曲がる(北側の通路)を進んでいく。奧の陵は低いなあ。やっぱり正面とされている一番大きな陵墓が建国者赫居世の墓かなあ。
道の向こうに鹿がいるね 歩いていると5つの陵墓がさまざまに見え隠れする。そして半球形ではないので、形も変わって見えてくる。先ほど見つけた鹿は背中側にいるが、奈良の鹿のように寄ってくることもないが、逃げようともしない。この辺りからは陵墓が6つに見える。 五陵の1つが瓢箪形だとわかってきた。これが瓢箪形の陵墓。 しおりにあった上から見た写真と韓国歴代王年表です。 最後の角に来ると左にも道が付いている。向こうに石を埋め込んだ低い土壁に囲まれた崇徳殿がある。
ちょっと行ってみる?
壁に囲まれた中に入ると小さな建物の中に石碑があった。これが赫居世の神道碑らしい。見学していると、先ほど五陵の周りを歩いていた黄色いユニホームの幼稚園児たちが、えらく我々が気になるらしく、こっちに走ってきたり、戻ったりしている。そんなに顔は変わらへんと思うけどなあ。 そして壁に囲まれた井戸があった。石の蓋しか見えないが、閼英井と呼ばれている。説明板は、新羅の始祖王の王妃、閼王夫人の生まれた所である。紀元前69年、或る老嫗が井戸に水汲みに来て見ると井戸端に大きな龍があるのを見てびっくりしたがその龍のそばに女の子が生まれているのを見つけ抱き帰り育てたのが後に始祖の王妃になったと言う伝説が残っているという。入口まで戻ると、荷物を持った人たちが入ってきた。外に出ると、同じような人たちがやってくる。どうも五陵は参るところではなく、慶州の人たちのピクニックの場所になっているみたいだった。
塀に囲まれて静かやし、木陰もあるし、のんびりできてええなあ。

陵の前にあるのは供物台ではなく、魂が泊まる場所という意味の魂遊石だそうです。これについては、4日目-5 大陵苑(テヌンウォン 대릉원)で味鄒王陵と天馬塚をどうぞ。

※参考文献
「観光慶州」(慶州市発行)