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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2009年8月3日月曜日

北京の胡同巡りで四合院へ


後日北京で胡同巡りをした。ガイドの高さんが、胡同は狭い通りという意味です。元の時代からあります。胡同に沿って四合院の住宅が並んでいます。胡同はどんどん取り壊されています。見学するなら今の内ですと言っていた。我々が行ったのは、前海と后海の間にかかる銀錠橋を中心に巡るコースだった。

前海は、故宮の西側にある南海・中海・北海につながっていて、后海はさらに西海や昆明湖にもつながっているが、上海の近くの杭州から運河でつながってます。船で食べ物やいろんな物資を運んでいました。隋時代にできた運河ですと胡同の専門ガイドが説明してくれた。何とも広大で長大な話だなあ。

午海の周囲は散歩道として整備されている。
狭いといっても車が通行する道もある。お昼時でおいしそうな香りが漂ってくる中、二人乗りの三輪自転車(輪タクと呼んでいたが)で駆け抜けた生活感あふれる胡同はグレーの壁(高さんによると以前は赤く塗られていたらしい)の家々の間を縫っている。初夏にしては暑い日だったが、幌のおかげで涼しく巡ることができた。 后海も終わりに近い北側に宋慶齢故居はあった。溥儀のお父さんが住んでいたところですと高さんが言った。一般常識と知識に欠ける私には宋慶齢が誰か全くわからず、門を入ると延々続く庭や大きな木々に、先ほど三輪自転車で駆け抜けた胡同の両側にひしめく民家とは別世界のようで、違和感を覚えながらの見学となった。 門から4分もかかって着いたのがこの建物。別の二階建ての建物も見学した。後で知ったのだが、ここも四合院という形式の邸だったのだ。そういう説明があれば、もっと違った見学ができたかも。大きな四合院になると、サッカー場ほどの広さの中庭があるらしい。 銀錠橋から北に進み、すぐに右手(東)にのびるのがキセル通り(烟袋斜街)。700年の歴史があります。全長340mですとガイドが説明するこの通りは、名の通り先が曲がっている胡同で、昔の風情はすでになく、土産物屋が並んでいた。 また銀錠橋を南に渡り、ガイドが門の前の一対の置物を説明してくれた。太鼓は武官の家を示しています。また石段の数は階級を示しました。この家の石段は一番下は後でつけたので、3段です。必ず奇数です。NHKの『世界街歩き』という番組でこのあたりを一日歩き回るのがあって、この段数から階級という言葉ができたと言っていた。三段という階級がどの程度だったかわからない。今はどんな人が住んでいるのだろう。 続いてもっと狭い通りに入った。ガイドが案内してくれたのは、お爺さんが200元でこの家を買いましたという、こじんまりした四合院だった。
今回の旅行で各地で四合院を見学して以来、あることが頭を離れなかった。それは、中近東の中庭を取り囲んだ形式の家屋だった。中庭に面した北側の部屋は、冬に光が差し込んで暖かく、南側の部屋は夏に暑い日差しが入らないので、季節によって部屋を変えるというようなことを聞いたことがあった。中庭のある住宅はメソポタミアあたりが起源という。
それでこの家の人に聞いてみた「中庭を取り囲んで四方に部屋があるというのは、夏は暑いので日の入らない南側で過ごし、冬は日が入って暖かい北側の部屋で過ごすためですか?」
しかし、返ってきた答えは全く違っていた。中国は男尊女卑だったので、太陽の昇る東は男の部屋と決まっています、では女の部屋は西側ですね。そうです。でも西日が入るのでは?ガイドブックによると、モンゴル民族であるフビライが南宋を滅ぼし、元王朝を打ち立てたのが1271年。  ・・略・・  内モンゴルから胡人と呼ばれる人たちが北京にやってきて君臨した。彼らは外敵からの侵入を防ぐため、通りに面した壁には窓を造らず、中庭を囲むように建物を配した四合院造りの住まいを考案したのだそうだ。

実際に人が住んでいる四合院なので、写真は撮りにくかった。建物が中庭を取り囲む様子を1枚も撮っていないなんて。改築する家もところどころで見かけたが、見学が終わって移動する車から、取り壊される住宅を見かけた。 撤去、開発の足音はすぐそこまで近づいている。
※参考文献 
「新個人旅行08-09 北京」 2007年 昭文社