古代オリエント館は展示室を壁で仕切るというよりも、壁が部分的で、壁の切れ目にも展示物が置いてあったので、気の向くままに見ていったので、見残しもあるかも。
やっぱりヒッタイトのものから。
大きな甕 ヒッタイト帝国時代 前13世紀 ボアズキョイ、ハットゥシャ遺跡
壁の説明に、大きな甕は2000リットルの容量があり、穀物、野菜、油そしてワインが貯蔵されていたとある。
確かこの時期にはすでにロクロが使われていたはず。クレタ島のクノッソス宮殿にも同じように貯蔵用の大きな甕があったと思う。
人間と比べるとその大きさがわかる。(説明パネルより)
ヒッタイト時代のオルトスタット(浮彫のある腰壁)。
どの時代の、どこのものか、説明を撮らなかったのではっきりしたことは言えないが、『アナトリア文明博物館図録』では、平面的な浮彫のや動物の表し方などから、アラジャフユック出土のオルトスタット(前14世紀)と同じ頃のものではないかと思う。
鹿は青銅器時代には青銅の像がよく造られた。有翼のライオンが、古いシンボルを従えて、門の前で立ち上がって護衛に当たっているのかな。
オルトスタットは壁に組み込まれて展示室を巡っている。正面の3点のうち、
奥の四角いもの:ヒエログリフの銘文のある像の台座
トゥドハリヤⅣ像のもの ヒッタイト帝国時代 前13世紀 コンヤ、エミルガズ出土 玄武岩
他の円筒状のもの:供物台
ヒエログリフの銘文あり ヒッタイト帝国時代 トゥドハハリヤⅣ期 前13世紀 コンヤ、エミルガズ出土 玄武岩
アンカラのアナトリア文明博物館で見たオルトスタットよりも小さく華奢な気がしたが、人と比べるとそこそこの大きさ。
これは門を護るという浮彫ではなく、動物たちの狩りをしている場面。
壁の向こうにあるのは、おそらくスフィンクスの像。
門番のスフィンクス エジプトの女神ハトホルの頭飾を付ける ヒッタイト帝国時代 前13世紀 ボアズキョイ、ハトゥシャの南市のイエルカプ門より 石灰岩
ハトゥシャにはライオン門だけでなく、スフィンクス門もあったのか。
スフィンクス門はアラジャホユックのものが有名だ。ヒッタイト帝国時代はどの像も目がぽっかりと空いている。何かを象嵌していたのだろうか。
外の階段の上り口に一対置かれていたが、ライオン像は中にもあった。すべて後期ヒッタイト時代のものだった。
『アナトリア文明博物館図録』は、ヒッタイト帝国は紀元前1200年頃、いわゆる海の民の侵入によって滅亡し、生き残った人々はタウロス山脈の南や南東部に逃げた。彼らが新ヒッタイトと呼ばれる。このでき事の後、彼らは中央集権的な国家を建設する事はもはやできなかった。アッシリアからたびたび攻撃され紀元前700年、ついに完全に歴史から消え去ったがヒッタイトの伝統は最後まで守られていたという。
後期ヒッタイトは新ヒッタイト王国とも呼ばれるが、ヒッタイト帝国が古王国、新ヒッタイト帝国に分けられるので、混乱を避けて後期ヒッタイトと呼ぶことにする。
門を護るライオン 後期ヒッタイト時代(前12-8世紀)
前脚は揃えているのに、後ろ脚は歩いているように左脚が一歩前に出ている。その間に尻尾がある。メソポタミアのラマッスの影響かと思ったが、ラマッスは前脚を揃えて2本、側面から見た時用に向こう側の前脚が一歩遅れてもう1本、計5本ある。どちらがどちらに影響したのだろう。
外のライオンはたてがみははっきりわからなかったが、このライオンは菱形を並べたようなたてがみだ。
前脚の膝と後ろ脚の付け根に丸いものがある。
ライオンの門番 後期ヒッタイト時代 アラム人(古代シリア人) 前8世紀 ズィンジルリ、サマル宮殿建物P出土 玄武岩
アーモンドを規則正しく並べたようなたてがみだ。前脚の付け根に大きくX印がある。
脚はやっぱり5本で後ろ脚の間に尻尾がある。
そう言えば後期ヒッタイト時代のライオンの門番には翼がないなあ。
銘文のあるライオンの門番 後期ヒッタイト時代 前800年頃 マラシュ出土 高63㎝ 玄武岩
このライオンも脚は4本。たてがみは菱形を敷きつめたような表現だが、たてがみ以外の体中にヒエログリフで銘文が刻まれている。
これがヒッタイトのヒエログリフ。ライオンに刻まれていたのと同じ文字。
戦車に乗って闘う図も。馬の下に敵が倒れているのはアッシリアの浮彫からの借用で後期ヒッタイト時代のもの。
カルケミシュからも同じような戦車のレリーフが出土しているが、倒れた敵は仰向けだ。
※参考文献
「イスタンブール考古学博物館図録」 1989年 イスタンブール考古学博物館
「アナトリア文明博物館図録」 アンカラ、アナトリア文明博物館