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2026年4月3日金曜日

シヴリヒサル Sivrihisar ウルジャーミイ Ulu Cmii


本日の行程 Google Earth より
❶アンカラ Ankara ❷ゴルディオン Gordion ❸シヴリヒサル Sivrihisar ❹エスキシェヒル Eskişehir Google Earth より

❷ゴルディオンの遺跡を見学後、再び高速E90号線で❸シヴリヒサルへ。地層の縞模様が目立つ山

そうかと思えば農地は濃い赤土だったり。



シヴリヒサルの町 Google Earth より
シヴリヒサルは低いが三方を山に囲まれた小さな町だった。その奥まったところにウルジャーミイ(↓印)がある。


ウルジャーミイは簡素な長方形のモスクだった。下地図の❷の右下にある小さなポチは明かり取り Google Earth より
❶入口 ❷長方形の礼拝室 ❸ミナレット ❹墓廟 ❺シャドルヴァン(清めの泉亭)


シヴリヒサルのウルジャーミイは短辺の左寄りに入口がある。
説明パネルは、セルジューク朝時代から今日まで残るウル・モスクは、アナトリアにおける木柱モスクの最も優れた例であり、軍事裁判官であったエミール・ジェラレッディン・アリ・ベイによって建設が命じられた(最古の碑文によれば1231-32)。メヴラーナ・ジャルール・アッディーン・ルーミーの信奉者であり、カイホスロー三世(15代皇帝、1266-84)の公選弁護人であったミカイル・ビン・アブドゥッラーによって1274年に建物の最終的な形となった。
モスクは、メフメト二世の時代に、ヒア・ダンブルによって1440年に修復されたという。
建物の壁面は不揃いな石の層の間にレンガや木材が部分的に挟まっているが、ビザンチン時代から行われているアルマシュク(異なる種類の建材を交互の層に積み上げて壁を築く技法)ではなさそう。

❶入口


縦に伸びず、横に並んでいるだけのムカルナスも好ましい。



❷礼拝室
入ると節のある細い丸太の柱が並んでいた。
SIVRIHISAR BELEDIESI の Sivrihisar Great Mosque UNESCO World Heritage は、セルジューク朝時代から現在まで残っているアナトリア最大の多柱式モスク。屋根は67本の木柱で支えられており、そのうち19本には大理石の柱頭が用いられている。ペシヌス Pessinus から運ばれてきたと広く信じられている様々な古代の柱頭。
東西方向に伸びる長方形の構造の礼拝室は、水平方向を示すシンプルなタイプである。800年の歴史を誇るシヴリヒサル大モスクは、2500人が同時に礼拝できる広さを誇り、アナトリア地方でも数少ない木柱式モスクの一つ。セルジューク朝時代の傑作であり、現代まで残る貴重な建造物。地区の中心に位置し、その広さやその他の特徴から、ウル(大地)という名にふさわしい規模を誇るという。
多柱式モスクや礼拝室が横長なものは他にも見てきた。これについては後日忘れへんうちににて


ムアッジン用マッフイルのある空間の天井が一番高い。

自然の木を枝を払い、節も出たままの木の柱が5列並んでいる。

一番奥の柱列の向こうに二階建ての女性用マッフイル


ムアッジン用マッフイルからの眺め。小さな明かり取りとところどころに吊られた蛍光灯。

この辺りの木柱の節や割れがすごい。
礼拝室にはモスクランプが、よく見るタイプの丸く大きな円形の枠に吊られているものではなく、蛍光灯が5本一組で吊られている。これはこれで簡素でいい感じ。


アンカラのアスランハネジャミイと違って、ミフラーブとミンバル(説教壇)が長辺にあるが、こんな写真しかないとは・・・ 天井や舟肘木に気をとられていて😓
同ページは、ミンバルとミフラーブの向かいにある3本、その後ろにある1本、バザール側の出口にある2本の柱(一部は装飾がない)の計6本の柱が、創建当時のまま残っているという。


木柱の浮彫

ムアッジン用マッフイルを囲む木柱にも浮彫があるものも。


柱礎にも大理石の柱頭で高さを調節したものも。

日本の城の石垣に古墳時代の石棺や石仏が使われていたりするのと同じ転用材やね。


柱と梁の間に日本の建築用語でいうと舟肘木が並んでいるのが興味深かった。

舟肘木のようなものは結構複雑に細工されているが、天井の丸太は曲がったものもある。

これは補修材だろうか。



ミフラーブ
ミフラーブはマッカ(メッカ)のカーバ神殿に向かって礼拝する方向を示す大切なもの。アンカラのアスランハネジャミイではモザイクタイル、そのほかにも全面タイルで覆われたり、大理石で造られるなど、荘厳されてきたのだが、この礼拝室のミフラーブは漆喰装飾なのだろうが、さまざまな文様を和紙で表したような、柔らかな質感の漂うものだった。
細部については後日忘れへんうちににて

ミンバル
ミンバルも素晴らしいが、クルチ・マスジド・モスクから移設されたものという。
細部については後日忘れへんうちににて

説教壇の扉にも丁寧な細工が施されている。


外に出ると町を囲む山、そして町の人たちの憩いの広場があった。


❺シャドルヴァン(清めの泉亭)はモスクから離れたところにあり、ロバに反対に跨がるナスレッディン・ホジャ(トルコ人の間で語り継がれる頓智話の主人公)の像に小さな子供たちが寄ってくる。

❺墓廟は少し離れた高台にある。正方形から八角形へ移行し、そのまま八角形ドームがのる。この正方形から八角形への移行部がどのようなものか見たかったが、見学は午後からだとか。

アンカラのアスランハネジャミイ近くにあるアヒ・シェラディン廟も八角形ドームで、やはりこのようにいびつな形だけれど、こちらの廟の方がドームが小さく、外観は安定感があるが、


スキンチやペンデンティブを使わずに、正方形から八角形に持って行くのは無理がありそうで、修復されても歪みが生じているように見える。
トルコ三角形で架構したドームは内側に沢山の三角形をつくって円形に近い多角形に持って行くのだが、この廟の内側は外側と同じように逆三角形にしたのかも、と妄想してしまう。

窓の外側にも石彫が施されていた。


モスク南壁の壁面はアルマシュクではなく木材が挟んである。


同ページは、碑文には、オスマンの息子ハジュ・ハビブによって1409年(モスク建設から139年後)に建てられたと記されている。ミナレットは善行の象徴として、コンヤのメヴラーナ、イスタンブールのヒズル・ベイ、ホラーサーンのハサン・ビン・メフメトといった偉人たに支えられ、幾世紀もの時を経てなおその姿を留めている。
ミナレットの階段は西洋杜松材で、本体はレンガ造りという。

アザーンのバルコニーの下部はレンガによるムカルナス。
同ページは、バルコニー下のハニカム構造は、セルジューク朝時代のレンガ細工の素晴らしい例という。

その上には空色タイルが一列嵌め込まれているが、ところどころなくなっている。
ミナレット建設時に頂部の円錐形部分の下にシアンブルーのタイルが並んでいるという。
1409年のタイル。ミナレットに空色タイルが嵌め込まれるようになったのは11世紀のことで、ミフラーブよりも先。それについてはこちら


その後エスキシェヒルへ。 Google Earth より


ユヌスエムレ通り UnusEmre Cd. のポルスク川 Porsuk Çayı に①架かる橋でバスを降り。橋からは整備された川の流れと住宅が眺められる。

道路を渡って川の西側。散策している人は見かけなかったが、市民の憩いの場となっているのだろう。


川から離れて旧市街を歩いて行く。角のお店の窓が曲線になっていたり、

レンガ造りの建物があったり、


通りが曲がりくねっているので、建物も直線ではなく、鋭角になっているものも見かける。


クリーム色の建物も側面がレンガがむきだし。いろんな色に塗られていても、この街の建物はレンガ造りみたいだ。



Papağan Çiğbörek パパン・チボレクというレストランへ。
建物の角が入口になっていて、創業者の写真の左右に掛けてあるオウムのトルコ語がパパンという。

トルコはパンがいろんな種類があってそれぞれ美味しいが、食パンは初めて見た。スープと辛~い青とう、そしていつものようにアイラン。

珍しくマントゥ(Mantı 水餃子)が出てうれしい。トルコ料理にはヨーグルトが掛かるのが普通。

これが店名でエスキシェヒル名物のチーボレク


ユフカという薄い生地の中には挽肉が入っている。


デザートはムハレビ Muhalevi というとろとろプディングのようなもの




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タイルの歴史

参考サイト
SIVRIHISAR BELEDIESI の Sivrihisar Great Mosque UNESCO World Heritage このページにモスクの南北逆の平面図があります



2026年2月6日金曜日

アンカラ アスランハネジャミイ Ahi Şerafettin (Aslanhane) Cami とアンカラ城 Ankara Kalesi


アナトリア文明博物館からアスランハネジャミイへ向かった。
❶アナトリア文明博物館 ❷アスランハネジャミイAhi Şerafettin (Aslanhane) Camii ❸アスランハネ墓地 Aslanhane Camii Haziresi ❹アスランハネの墓廟 Ahi Şerafettin Türbesi ❺アンカラ城門と時計台 Ankara Kale Kapısı ve Saat Kulesi ❻アンカラ城 Ankara Kalesi

『世界歴史の旅 トルコ』(以下『世界歴史の旅』)は、アルスランハネ・ジャミイの周辺には、農耕具, 羊飼いのフェルト製のマントなど、アンカラ近郊の農家相手の雑貨屋が並んでいる。もっとも古きアンカラの雰囲気を残している地区であるという。
現在では土産物屋が多いようだが、大村幸弘氏の言うとおり良い雰囲気の家並みの地区だ。

坂の上を見上げると崩壊寸前の家屋が。これを見ると、フランスでコロンバージュと呼ばれる木組みの家屋のように、木材の間にレンガで壁を埋め、外に漆喰を塗っている。


❷アスランハネジャミイに近づくと現れたミナレットはこれまで見てきた形とは違うのだった。
説教壇の扉に刻まれたスルス体の碑文は、正面入口の東側に隣接するミナレットは、再利用された石材で作られた基部、レンガの台座、円筒形の胴体、そして八角形の円錐形のドームで構成されているという。

ミナレットの巨大な基壇とその隣の大理石のファサード。

İSLAM ANİSKLOPEDİSİ のAHÎ ŞERAFEDDİN CAMİİ は、木製の説教壇に刻まれた最初の碑文には、アナトリアセルジューク朝のスルタン、メスード・ビン・ケイカヴス(メスード二世)の治世下、アヒ兄弟によって(1290年)に建立されたと記されているが、実際にはそれよりも古いという説もある。正面玄関横の別の碑文には、建立者として「セイフェッディン」の名が記されているが、これを「シェラフェッディン」と読む研究者もいる。これはエミール・セイフェッディン・チャシュニギルの名である可能性があり、建物の建設時期は13世紀初頭にまで遡ることができる。多くの研究者は、同世紀末に荒廃していたモスクを、フッサメディンとハサンという二人のアヒ兄弟が修復し、ミフラーブもこの時期に建てられたという点で一致しているという。
それは修復された時で、上から見ると正方形平面で宝形造りのような屋根に見えるが、長方形なら創建時はこんな屋根ではなかっただろう。
ⓐ礼拝室 ⓑミナレット ⓒ西の入口 ⓓモスクを創建したアヒ兄弟の墓廟の入口 ⓔアヒ兄弟の墓廟   Google Earth より


東壁
形の整わない石材の層の間に木材が挟まっている。

ⓑミナレット(トルコ語ではミナーレ)


タイルが貴重だった頃、ミナレットにまずタイルが使われた。しかもほんの少し。

これがオリジナルか補修タイルかは不明だけれど。

正方形平面からトルコ三角形を介して八角形が導かれた、スキンチでもペンデンティブでもないトルコ独特のもの。

この大きな基壇の内部はどうなっているのだろう。

『世界歴史の旅』は、アンカラではもっとも古いモスク。モスクの入り口、壁には周辺のローマ、ビザンツ時代の遺跡から運んできた石材が多用されているという。

上は矩形の中に円を入れた複雑な構成を二重の組紐文で繰り広げている。


ファサードは白い大理石に簡素なムカルナス

白い大理石はローマ時代の遺構から集めた形の揃わないものを積み上げている。8段のムカルナスは別の石材だろうか。



ムカルナスの下からモスク内に入るのかと思ったら、右手に回り東側の入口から入った。


İSLAM ANİSKLOPEDİSİ  の AHÎ ŞERAFEDDİN CAMİ は、このモスクは、アンカラだけでなくアナトリア全体の本来の特徴と貴重な要素を今日まで保存している、トルコ建築の中でも最も貴重な建造物の一つという。
ⓒ西の入口から入った正面が女性用マッフィルだった。中央の低い仕切りはムアッジン用マッフィルだろう。
柱の上部に木製のムカルナスを取り付けて柱頭としている。

上階のマッフィルには王族専用だったのかな。

下は女性用。


中央の通路の天井は他の通路より高くなっている。しかも3段に持ち送っている。
碑文は、五つの縦方向の側廊を持つバシリカ式の平面。中央の側廊は側廊よりわずかに高く、幅も広くなっているという。
アンカラに五廊式バシリカの教会堂があってそれを参考に造ったのだろうか。

こういう風に写すと教会でいう身廊が側廊よりもかなり高いように見える。


ミフラーブを見つけてミンバル(説教壇)に注意を払わなかったため、円柱に隠れたままだった。


左側廊
これだけ柱が多いと大きなランプを吊せないので、あちこちに小さなモスクランプが下がっている。

右の側廊
柱の長さに合わせてローマ時代やビザンティン帝国時代の大理石の柱頭を再利用している。

何故か斜めになってしまったミフラーブは、モザイクタイルと漆喰装飾が素晴らしい。

モザイクタイルだけではない、白い浮彫の装飾も。

そして向こうのミンバルにはキュンデカリの細工が。

モザイクタイルやキュンデカリの装飾については後日忘れへんうちににて


ⓓモスクを創建したアヒ兄弟の墓廟の入口
扉が閉まっているので入れないが、軒の木材ががっしりとしていて立派だった。最初はローマ時代の白い大理石の円柱や欠片が再利用されていることが目立ったが、この方向から見ることができて良かった。

上を見上げると❻アンカラ城が青空にくっきりと浮かんでいた。


ⓔアヒ・シェラディンの墓廟 Ahi Şerafettin Türbesi が道路から見えた。

正方形平面からおそらくスキンチで八角形に導きそのまま高さのある八角形の屋根(これもドームという?)がのっている。ここから見た限りでは八角形の屋根とその下部構造とは同じくらいの高さ。鄙びていてええ感じ。八角ドームはかなり歪みが生じているけれど。
それにしても、正方形平面から八角形のドームを架構した墓廟は他にあっただろうか?円形または円形に近い多角形の胴部に円錐ドームがのっているのはキュンベット Kümbet と呼ぶが、この廟はテュルベ türbe とされている。イスタンブールのモスクに付設された墓廟はドームがのっていてテュルベと呼ばれている。
それについては覚えていれば後日忘れへんうちににて


少し歩くと❺アンカラ城の門 左の監視塔の上には時計台
『世界歴史の旅』は、アンカラ城の近くに1996年におこなわれた考古学の発掘現場がある。下町の再建計画をもとに旧市街の一部をとりはずしている最中に遺跡が確認された。アナトリア文明博物館が発掘調査をおこない、前8世紀の鉄器時代の彩文土器をはじめ、多くの遺物が出土したという。
彩文土器なのでフリギア時代の遺跡。そう言えばアナトリア文明博物館にはアンカラ近郊の遺跡の出土品が展示されていたので、ここの出土品もあったかも。

『世界歴史の旅』は、ビザンツ時代に築かれたといわれるという。

狭い通りが枝分かれして複雑な上に、一階より二階が通り側に出て、三階は更に出るというトルコ風の家屋がぎっしりと続いている。


城壁が見えてきた。下の方と上部では石材の色が違うので、時代が異なるのかも。とはいえ、下の方は転用材が多く、上の茶色い石材は形が揃っている。

円柱や石棺などが使われている。

その壁面の裏側へ回り、左の通路へ。

アーチから新しいながらトルコの民家らしい落ち着いた建物を見て、

複雑に入り組んだ城壁や監視塔

その外を回り込んで、

その後も右折左折を繰り返して、

こんなに出っ張った二階、落ちてきそう。

そうかと思えば、こんなに狭い距離しかない向かい合わせの建物も。

両側の建物が城壁に密着していて、下の狭い開口部を出て、


階段を上るとアンカラ城の上に出た。南方には新しい住宅が続いている。




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参考サイト

参考文献
「トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「世界歴史の旅 トルコ」 大村幸弘・大村次郷 2000年 山川出版社

参考にしたもの
アルスランハネジャミイの説教壇の碑文