お知らせ

エジプト旅行の記事を始めます。 興味を惹かれたものについての詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2026年9月11日金曜日

ギザ クフ王のピラミッド複合体東部


クフ王のピラミッド内部を見学後、ピラミッドの東側へ回っていった。

北東の角

ピラミッドとは関係ないような丸みのある大岩が転がっているが、これは?


ピラミッドは単体ではなく、河岸神殿や衛星ピラミッド、親族のマスタバ墳などが周りに建造された複合体になっている。
ギザ ピラミッド複合体とスフィンクス Google Earth より
Bクフ王のピラミッド ❶入口 ❷太陽の船Ⅰ ❸葬祭殿 ❹太陽の船Ⅱ ❺クフ王の母后ヘテプヘレス一世のピラミッド ❻メリタテス一世王妃のピラミッド ❼ヘヌトゥセンク王妃のピラミッド ❽クフ王の孫娘でカフラー王の妻メレス・アンク三世のマスタバ
カフラー王のピラミッド ➒葬祭殿 ➓参道 ⓫大スフィンクス ⓬スフィンクス神殿 ⓭カフラー王の河岸神殿

クフ王のピラミッド複合体南側
Bクフ王のピラミッド ❸葬祭殿 ❼ヘヌトゥセンク王妃のピラミッド ❻メリタテス一世王妃のピラミッド ❺クフ王の母后ヘテプヘレス一世のピラミッド ❷太陽の船Ⅰ


❷太陽の船Ⅰが埋納されていた穴
前回見学した時はピラミッドの近くに展示施設があって、中に入っても目の前には何もなかってがっかりしたものだった。ガイドさんが指さした上の方に船の底が見えて驚いたが、現在はギザ近郊に完成された大ピラミッド博物館の別館に収蔵されている。
その見学の記事は後日旅編にて。


白い(赤茶けた)石の上に黒い石がかなりの面積に敷かれている。これが❸葬祭殿の敷石とは。

この黒い石はというとファイユーム産の黒い玄武岩。玄武岩は六角形の柱状節理にはなっていない。

白い(赤茶けた)石をじっくり見ると貝の化石が。ギザの台地が石灰岩でできているのがよく分かりました。


白い石は矢穴が足の爪のように密に並んでいる。


葬祭殿平面図
1参道 2葬祭殿の中庭 3列柱廊(角柱) 4祭壇または至聖所
神秘のミステリー! 文明の謎に迫る 古代エジプトの教科書』(以下『古代エジプトの教科書』)は、1辺の幅が50mを超える大神殿だったが、現存するのは黒色玄武岩の床の一部や花崗岩の柱の受け口のみという。
クフ王のピラミッド南側の葬祭殿平面図 現地説明パネルより


クフ王の葬祭殿前から河岸神殿から続く参道を東へ。 

❺クフ王の母后ヘテプヘレス一世のピラミッド前
ここで❽クフ王の孫娘でカフラー王の妻メレス・アンク三世のマスタバのチケットを買っているのかな。

傍の竪坑
説明パネルは、エジプト王の母、娘、そして妻として、ヘテプヘレス一世王妃は華やかで威厳に満ちた生涯を送った。1925年、ギザで活動していた写真家によって偶然発見された彼女の墓は、古代エジプトの女性が有していた権力や影響力を知る手がかりとなっている。この偉大な王妃は、父であるフニ王の死による第三王朝の終焉を目の当たりにし、夫スネフェル王や息子クフ王の治世を通じて、壮大なピラミッドが築かれていく様を見守ったことだろう。
王妃の埋葬の様子は、多くの疑問に答えてくれる一方で、新たな謎も投げかけている。彼女の墓は、石棺やカノポス(内臓を納める容器)の箱、葬送用調度品など、当初の副葬品がすべて揃った状態で発見された。運搬用の椅子(輿)、寝台、天蓋、低い椅子、宝石箱といった品々は、いずれも金箔やその他の貴重な素材で装飾されている。これらの品々に刻まれた王の象徴や称号は、彼女が古王国時代において最も影響力のある女性の一人であったことを物語っている。
考古学者たちはヘテプヘレスのギザの墓を未盗掘の状態で発見したが、副葬品が解体された状態で玄室内に無造作に置かれていたことから、そこが彼女の当初の埋葬場所ではなかったことはすぐに明らかになった。さらに、石棺の中に彼女のミイラは収められていなかった。ヘテプヘレス一世は元々ダハシュールに埋葬されているが、そこで墓が盗掘者によって荒らされ、冒涜されたと考えられている。息子のクフ王は彼女の遺体の移送を命じたが、ミイラが失われていたことについては、おそらく知らなかったものと見られているという。
なんと!


崩壊が進むヘテプヘレス一世王妃のピラミッドを回るように広い通路を西へ。

❻メリタテス一世王妃のピラミッドと❼ヘヌトゥセンク王妃のピラミッドの間から顔を出したBクフ王のピラミッド。


❼ヘヌトゥセンク王妃のピラミッドの背後にはBクフ王のピラミッドと頂部に化粧石が残るCカフラー王のピラミッド
このピラミッド前には円柱が一本だけ残るヘヌトゥセンク王妃の葬祭殿があった。


カフラー王のピラミッド頂部
古代エジプトの教科書』は、カフラーのピラミッドは保存状態が良好で、頂上部にはトゥーラ産の良質な白色石灰岩の化粧石が一部現存している。本来この化粧石は、ピラミッドの下部分まで覆っていたという。

やがて落ちてしまいそうな石が並んでいる。
クフ王のピラミッドほどの規模ではなくても、よくこれだけの石を積み重ねられたものだ。その上に化粧石をのせて表面が平らな斜面にできたとは。


同王妃のピラミッドの前には葬祭殿が残っていた。これは祭壇など

パピルス円柱は茎・花・蕾を表している。周囲には柱礎や円柱のドラムなどが散在しているが、修復は難しいのかな。


その後は説明を聞きながら、整然と並んだマスタバの間の通路をガイドのナグラさんの後を追いながら散策していて、マスタバも表面が化粧石で囲まれていることに気が付いた。
マスタバについてはその形を長方形とする書物が多いが、化粧石はやはり斜めに積むので、台形としておこう。

ほらね。台形の方が積んだ石が安定するだろうし。



大きなマスタバが行く手を遮ったが、ナグラさんのはその前を右折、また左折右折を繰り返して、❽メレス・アンク三世のマスタバへ

入口横の偽扉


説明プレートの平面図 上が西
❶横長のホール ❷供物室と埋葬竪坑 ❸石彫の10体の彫像の部屋(葬祭殿)
気づかなかったが、各部屋への開口部には両開きの扉があったのだ。


日常生活の場面や書記の像が豊かに表されたホール
入ってすぐの右壁に墓主のメレス・アンク三世が大きく彫られ、召使いたちは小さく描かれている。左の召使いは右手に団扇状のもの、左手にハエ叩き状のものを持っている。

左手には偽扉


南壁の浅浮彫には人々の生活が描かれているが、何を表しているのか分からないものの方が多かった。
詳しくは後日忘れへんうちににて

その下に人物坐像が大小6体。

全員が書記 scribe のようだ。左へいくほど像が小さいのは文字の表現の習得度の低い年少の見習いなのだろう。

1人ずつ壁龕に入っている2人は親方では。

こちらにも偽扉。偽扉だらけのマスタバ。


こちらの開口部からは❷供物室の2体の女性立像が見えている。


横長のホールに戻ると、北東の壁にはメレス・アンク三世の姿。足が並んでいるということは死者を表している。

王妃と従者の間の小さく描かれた召使いたちはハエ叩き状のものでハエを払っている。



この通路から❸の部屋に入る。

10体の彫像が並ぶ部屋
偽扉と、故人が母親と共にいる姿を岩に彫り出した彫像がある。
まず左より3人。最初の女性だけ髪型が異なるのは母では?

少し離れて5人と子供2人。全員が両手を下ろし、足を揃えている。


左橋の3人。



❷供物室
左(南)壁の壁いっぱいに浅浮彫が施されていた。

Tomb of Queen Meresankh IIIは、西の部屋は、彼女のために葬礼儀礼を行う中心的な場所だった。選ばれた神官たちがここを訪れ、別の偽扉の前で、彼女の霊に飲食物を捧げていたという。
肩を組んだ二人の女性像の左側には幾何学的な浅浮彫が見える。古代エジプトでは、生きている人物は左足を出し、死者は両足を揃えている。

そして正面には偽扉、その隣の女性たちは腕を下ろして足を揃えている。そしてその右側にも幾何学文らしきものが浅浮彫されている。

北壁には壁画があるが下半分は失われているようだ。

Tomb of Queen Meresankh IIIは、メレスアンクの墓の西の部屋にある際立った「偽扉」の真下には、上層から5m以上も下った場所に埋葬用の竪穴と埋葬室があるという。
階段を下りていく。

下の方がかなり傷んでいるけれど、ここにも足を揃えた女性立像が並んでいたみたい。
内部には何も残っていないが、Tomb of Queen Meresankh IIIは、メレスアンクの巨大な花崗岩製石棺が残されていた。この地下の部屋は、上階にある礼拝堂の壁画に描かれているような、豪華で高価な品々で満たされていたことだろう。
メレスアンクの母は、元々自分自身のために作り、自身の名前と称号を刻んでいた黒い石の石棺を娘に贈った。母はそこにメレスアンクの名を新たに刻み、メレスアンクの遺体を納めた木棺を収めることで、その遺体を永遠に守ろうとしたという。
メレスアンクは母よりも先に亡くなった。「若くして死んだ」というアガサクリスティの『スリーピングマーダー』に出てくる台詞を思い出した。何の関係もないのだけれど、最近NHKで放送されたのが頭の隅に残っていたのだろう。
ここには玄武岩の棺があって、その中に木棺が入れられていたのだとすると、ある程度大きな石棺だったのだろう。どこかの博物館に収蔵されていることだろう。

見上げると偽扉が見えた。


関連記事

参考文献
「神秘のミステリー! 文明の謎に迫る 古代エジプトの教科書」 河江肖剰監修 2023年 ナツメ社
「古代エジプト1 ピラミッドとツタンカーメンの遺宝篇」 仁田三夫編 1998年 河出書房新社