お知らせ

やっとアナトリアの遺跡巡りを開始しました。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2022年3月29日火曜日

オスティア・アンティカ2 劇場と同業者組合広場


遺跡地図
オスティア・アンティカの遺跡地図 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より


柱廊の西側は劇場の両隣に設置されたニンファエム(泉水場)
右上の平面図 後世泉水場の上に教会が建てられた
右下の立面図 その教会の想像復元図
左下の列柱図 ローマ帝国時代の泉水場の想像復元図 説明パネルより

4本の円柱のうち3本残っている。手前の欠けた円柱の様子から、ドラム式ではなく一本の石柱(モノリス)が並んでいたようだ。

確かに半円形の枠の中に別のものがある。これが教会の一部。


劇場
観客席後部の構造
ローマン・コンクリートが露出した壁面。外壁となるレンガの積み方だけではなく、高さによって骨材も変えるなどいろいろと工夫されていたことが見られて興味深い。
『古代ローマ人の危機管理』は、オスティアに限らず古代ローマのコンクリートは、骨材(セメントに混ぜる石)の比率が大きいだけでなく、骨材そのものも大きいため、骨材を固着させるセメントが強度を失っても、骨材どうしがかみ合って、持ちこたえられる可能性があるという。

劇場への階段


劇場は半円形で舞台の建物は失われている。その奥は同業者組合広場
『望遠郷 ローマ』は、劇場は、浴場と並んで古代ローマ都市を特徴づける施設である。この劇場はアグリッパによって建てられ、2世紀末にコンモドゥス帝が一部修復させた。この修復後は、 約4000人を収容できたという。現在の外観、とくに階段席と列柱廊は1927年の大修理によるものであるという。
これまで見てきた古代ローマの劇場の中では小さい。

想像復元図
同書は、舞台(オルケストラ)には矩形と曲面の壁龕が交互に設けられ、その上には発掘のさいに見つかった大理石装飾の断片が置かれていたという。
オスティア・アンティカ 劇場の想像復元図 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME 』より

舞台のどこを飾っていたのか、石造の仮面の浮彫が並んでいた。

レンガ積み(オプス・テスタケウム)の充填剤だけの巨大な塊。割石だらけだが、補修したのか、そのままなのか。

レンガ積みは残っていても、上部は補修して割石もところどころ出している。



広場の中にはケレス神殿
同業者組合広場の列柱は石製のようなのに、その中の神殿の円柱はレンガ積みに漆喰を上塗りしている。
それについてはこちら


舞台へと降りていく。


舞台を装飾していたものらしく、レンガとは別財で、卵鏃文様やアカンサスの葉などの飾りが残っている。

別の遺構。デンティル(歯形装飾)の上には複雑な装飾がある。

座席側。こぢんまりした観客席。

下方は3段下がって砂地となるのだが、妙なものが気になった。
それは炎のような形を石でつくってあり、段の間に刺さっていた。


同業者組合広場
広場を囲む舗床モザイクは当時の通路。その外側に店舗が並んでいた。
『望遠郷 ローマ』は、モザイクは、さまざまな色の石やガラスの小断片を並べて絵や模様を描きだす芸術であり、 古代ローマで技法・表現ともに大いなる発展を遂げる。壁面や天井、床など、目的や図柄によって、4種類の技法が区別されていた。幾何学的な模様から複雑な絵画的表現まで、 色彩も単彩、多色とモザイク芸術のあらゆる可能性が究められた。オスティア(とくに2世紀の同業組合広場のもの)は、人間や動物を黒白のシルエットで描いたモザイク舗床で有名であるという。

低い円柱跡のところから、屋根付きの店舗になっていた。
オスティア・アンティカ 同業者組合広場の想像復元図 『ANCIENT OSTIA』より

おっと、また飛行機が上空を通過。


シンプルに文字だけのものもあれば、


何文様というのだろう。カーペットのように敷き詰められ、小さな区画に船が描かれている。

港町だけあって、船とイルカの絵が多い。


2本の木の間に容器


凪いだ海を漕いで進む帆立船


向かい合うイルカとオスティアの灯台


石畳文を配置を換えて変化のある幾何学文様に。右下隅も灯台?


上下逆さまに写してしまったが、奥からイノシシ、続いてヘラジカ、手前は象。
『望遠郷 ローマ』は、この猪は、鹿や象などを描いた大型モザイクの部分。このモザイク には、狩猟、拳闘士と動物、動物同士など、円形闘技場での闘技に使われた動物が描かれているという。

簡素な七宝繋文かと思えば、黒地に白の円と四角が交互に配されたところもあったりして。


文様がお店の看板のようになっているものも。

奥の寸胴鍋に三つ足のついた容器は何だろう。手軽にスープの飲める店を表しているのかな。


風変わりな幾何学文様だけの店も。






関連項目

参考文献

「ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME」 VISION S.r.L. 2015年

「古代ローマ人の危機管理」 堀賀貴 2019年 九州大学出版会
「望遠郷 ローマ」 1995年 ガリマール社・同朋舎出版・編

2022年3月22日火曜日

オスティア・アンティカ1 墓地~消防士の宿舎


タルクイニアからローマへの帰り道。右手に見え隠れするティレニア海をのんびりと眺めていた。

邪魔な送電線の向こうに島が2つ。近くの小さな島が見えているのかと思っていたが、ローマ・タルクイニア間には小さな島さえなく、見えていたのはコルシカ島とサルディーニャ島だったとは😮

ちいさな町、ゆっくりと進む船、水平線、ずっと見ていても見飽きることがない。


やがて道路がカーブして、太陽の光が海に反射して白く輝きだした。


海が見えなくなってしばらくすると、テベレ川のスカファ橋へ。この橋のためにマストのある船は上流方向には行けないので、両側に密集して浮かんでいる。
古代にローマの外港として造られたオスティアはもうすぐかな。 

フィウミチーノ空港が近いので、ひっきりなしに飛行機が飛んでくる。
おっと右端の木の奥に遺跡が!

空から見たオスティア・アンティカ
右下方に半円形の劇場跡が見えている。
オスティア・アンティカの航空写真 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より


やっとオスティア・アンティカ考古学区に到着。現在のオスティアの街は別にあるので、「古い」を付けてオスティア・アンティカと呼ばれている。

遺跡地図
オスティア・アンティカの遺跡地図 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より


墓地
摩滅した玄武岩の敷石のおかげで歩きにくい。当時は墓地は市壁の外につくられたので、ローマ門までは墓地が続いている。
『望遠郷 ローマ』は、ローマでは聖域である都市境界ポメリウムの外側が、死者の埋葬の場所であった。これは知られる限りの古い時代からの習慣だった。このため古代ロ ーマの街道沿いには、社会階層や埋葬儀礼によって異なる多様な一大墓所が形成された。土葬と火葬が同時に存在したが、どちらが優勢だったかは、時代によって異なる。共和政期は火葬が優位で、納骨堂(無数の骨壺を並べた建物)や骨灰を納めた祭壇が好まれた。逆に帝政期には土葬の習慣が広がり、カタコンべが出現する。土葬は、より広い空間を必要とする。これに機能的に対応すべく、死者を地面の下に造った墓地に埋葬したのである。4世紀以後、ローマ市民が新宗教のキリスト教に帰依するに従い、カタコンベはほぼキリスト教徒に独占されたという。

これで一つの墓なのか、それぞれの軒飾りの高さが違うので別々の墓なのか、

右端の軒飾りには七宝繋文が横一例に並んでいる。


土のところ、当時の歩道を歩いた方が楽。


こんなおしゃれな壁面も
これは網目積(オプス・レティクラトゥム)という積み方。
詳しくはこちら

それは広い墓所を囲む壁だった。


その向こうにアーチ門のある墓所。これについても別記


屋根が掛けられた壁面はアーチが並ぶ。小さなアーチの墓と呼ばれている

そこにはこんな面白いタンパンが並んでいた。


それぞれ太陽を表しているよう。


しかもティレニア海に沈んでいく夕日。やや不気味~😨


実際には見ていないが、この墓域ではテラコッタの香油瓶が出土している。時代は不明だが、古代ローマの香油瓶なのに、ローマン・グラスではなく土器である。しかも色ガラスをぽつぽつ付けたような装飾があるものも。
オスティア博物館蔵テラコッタ製香油瓶 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より

キリスト教時代の石棺も置かれていた。

体の汚れは、体に油を塗っり、それを落とすための道具肌掻き器があった。それがやがて並べられて石棺の文様になった。



やっと現れたローマ門と周壁の一部

『ANCIENT OSTIA』は、ネクロポリスの向こうのオスティエンシス通りに、前80年頃にスッラによって建てられた壁に嵌め込まれたポルタロマーナが立っている。
つい最近、新しい解釈が提案され、壁の建設開始日を前63年にしたという。
アカンサスの透彫のコリント式柱頭が残っている。
ローマ門の装飾断片 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より


古代オスティアの街に入って左手に、ヴィットリア広場の一部

勝利の女神ミネルウァ像
『望遠郷 ローマ』は、名は、ドミティアヌス帝時代の修理工事で加えられた門の装飾の一部と思われる有翼の勝利のミネルウァ像に由来するという。

それに続く建物

デクマノ・マッシモ(大通り)は相変わらずの石畳。

少しでも日陰のある側を歩いて右折。

ネットゥーノのポルティコ(柱廊)の跡


しかも二階建て
コロネードについて『古代ローマ人の危機管理』は、オスティアでは一般的に見られ、頑丈な柱の下部が残っている。歩道と解説される場合があるが、これらはある 特定の建物の前面に限定され、街路に沿って連続していないた め、街を移動するための歩道としては機能しない。おそらくこれらは防火対策、あるいは次章で解説する洪水対策として建設されている。スエトニウスが記すところではネロはコロネード付き廊下のみを推奨しただけでなく、コロネード付きの新型建物も考案したようであるという。

またデクマノ・マッシモ(大通り)にもどり、やはりコロネードのあった日陰を進んで行く。


やがてネットゥーノの浴場へ。

階段を登ると

パレストラや浴場の建物が眺められる。
説明パネルの平面図
ネットゥーノの舗床モザイク アンフィトリテの舗床モザイク 冷浴室 脱衣所 微温浴室 パレストラ 


左手向こうにパレストラ(体育場)

パレストラで行われている運動の場面が舗床モザイクになっていて、当時の訓練の様子を知ることができる。

正面に浴場の建物群。

ポンペイやエルコラーノの浴場と同様に、浴場の床はモザイク画がある。
説明パネルより

仕切りの壁と影に邪魔されながら舗床モザイクを見学。
ネットゥーノ浴場と呼ばれることになったネプチューン(ギリシア神話のポセイドン)が、4頭立ての海馬戦車に乗って疾駆する場面のモザイク。その回りには人間、イルカのほか、長くくねくね伸びた尾を持つ半魚の怪物がいる。

アンフィトリテのモザイクの部屋
アンフィトリテはポセイドンの妻。トリトンは息子で上半身は人間、下半身は魚。
それにしても、左上のモザイクを見下ろす4人、現代人の影のはずなのに、何故か古代ローマ人のよう。

パレストラから見たシッラの舗床モザイクのある冷浴室。円柱が2本、その向こうにはみごとなイタリアカサマツ。

浴場の建物群を眺めながら来たの方へ移動。

途中から浴場の建物群に入り、ハイポコーストも見えた。湯を沸かす時に出る熱気を床下に通して暖めた。


パレストラを出て奥の建物へ。

そこは消防士の宿舎跡
詳しくは後日

中庭には日本でもありそうな野草が咲いていた。


中庭と周囲の建物跡(パノラマ合成のため歪みがある)

ネットゥーノの柱廊まで戻っていく。
イタリアカサマツは大きな日陰をつくってくれるのでありがたい。

その途中にも建物跡が続く。

左の建物跡にあるパネルはカポーナ・ディ・フォルティナートと書かれている。

カポーナ・ディ・フォルティナートは説明パネルの下右図のように飲食のできる休憩所だった。


                 →オスティア・アンティカ2 劇場~同業者組合広場

関連項目
古代ローマ オスティア・アンティカの墓地で石積みを復習

オスティア・アンティカ4 フォロ界隈

オスティア・アンティカ3 大ホッレア~ディアナ通りのテルモポリウム


参考文献

「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」1999年 Newton Press

「OSTIA」 DI.EDIT.s.r.l.

「ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME」 VISION S.r.L. 2015年

「古代ローマ人の危機管理」 堀賀貴 2019年 九州大学出版会