お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2013年9月30日月曜日

ペロポネソス半島5 オリンピア4 博物館1 フェイディアスの仕事場からの出土物


オリンピアの遺跡では、フェイディアスの仕事場は、その後建てられた5世紀のキリスト教聖堂跡があるだけで、フェイディアスの痕跡は見付けられなかった。

しかし、考古博物館では、第7室総てがその出土物にあてられていた。
展示室中央のパネルはゼウス像の想像復元図。
フェイディアスの仕事場の模型。
ゼウスの坐像は12mを越えていた(『オリンピアとオリンピック競技会』より)ので、それが入るくらいの高い建物だった。
仕事場とはいえ、棟と軒にテラコッタの飾りまで付けられていたらしい。
ゼウス神殿の内室と同じ大きさで、そこでこのようなゼウス像を造ったという。

出土物の一例。
工具の先や装飾部品など

テラコッタに彩色した棟や軒の飾りも幾つか展示されていた。

1 左上 棟飾り(シマ)の部材 前430年頃
彩色によるメアンダー文とアンテミオン
アンテミオンについて『唐草文様』は、パルメットとロータスの組み合わせによるギリシア式唐草連続文。古典期ギリシア世界に一般的な装飾文様という。
エピダウロス出土のコーニス飾りのように、上部が迫り出した形をしている。
しかし、エピダウロス出土のものにないものがある。それはパルメット文を囲む蔓である。

2 右下 イオニア式破風の棟飾りの部材 前4世紀初
彩色による卵鏃文とメアンダー文
こちらはフェイディアスがゼウス像を制作したよりも後の時代のものだった。そのせいか、卵鏃文という他の物には見られない文様が出現している。

何よりも驚いたのは、前5世紀後半の屋根や棟の飾り(アンテフィクス、上部参照)下部にアカンサスが表されていたことだった。しかも。トゲまでしっかりと描かれている。

3 アカンサスの表されたアンテフィクス
館内の説明にもはっきりとアカンサスと書かれていた。
1のアンテミオンのパルメットとそれを囲む蔓をひっくり返してアカンサスの上にのせたようでもある。
4 アカンサスの表されたアンテフィクス
こちらにも下部にアカンサスが表されている。
アカンサスから中央高く伸びた1対の渦巻がパルメット文を囲み、もう1対の渦巻は両端に向かっている。2種類の蔓の間からパルメットが出ている。

屋根飾り(アンテフィクス)様々 前430年頃
左端は4のアカンサスの表されたアンテフィクス
これらを正面から見ると、

5 左上 アンテミアの部分
6 左下 同上
この2つは別のもので繋がらないが、6の目玉のような1対の渦巻の上に、5のようなパルメットがのっているのがこのアンテミアの完全な形だということが推測される。
また、6の渦巻から2つ、中央上の赤い菱形から1つ、花が出ている。
花の種類は異なるかも知れないが、エピダウロスのトロスのために制作されたコリントス式柱頭のモデルにも、渦巻から小さな花が出ていた。

7 右上 アンテミアのある隅屋根飾り(アンテフィクス) 前430年頃
説明ではそう呼んでいる。私がパルメットと呼んでいたものは、アンテミアだったのかな。
この辺りの知識がええ加減 ・・・
これについてはギリシア語に堪能な「日刊ギリシャ檸檬の森 古代都市を行くタイムトラベラー」さんのアンテミオン墳墓 古代ミエザが詳しいです。

ともあれ、この隅飾りは面積が広いので、渦巻とパルメット、そして小さな蕾を組み合わせて、まるでパルメット唐草のようなものになっている。
ひょっとして、これはすでに唐草文? 

8 左上 アンテミオンの屋根飾り(アンテフィクス)  前430年頃

9 左下 軒飾り(シマ)の一部 彩色によるメアンダー文(卍繋文) 前430年頃

10 右下 ライオン頭の樋口 前430年頃
仕事場の軒のどこに付けられていたのだろう。建物の模型からは知ることが出来ない。
11 この組み合わせは強引なような・・・
想像復元図が下にあった。ライオンの樋口もこの先に付いていたようになっている。
このパルメットと他の植物との組み合わせは、エピダウロスの考古博物館で見た軒飾りとは少し異なっている。
しかし、アンテミオンは、パルメットとロータスの組み合わせによるギリシア式唐草連続文。古典期ギリシア世界に一般的な装飾文様という(『唐草文様』より)ことであれば、地方で少しずつ異なっていただけかも知れない。
12 軒飾り(シマ) 前430年頃
一番はっきりと彩色が残っている。

別のコーナーでは妙なテラコッタ製のものがあった。何かの型らしい。

『OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS』は、像のヒマティオン(ギリシアの男性用外衣)の土型という。

パルメットを思わせる配置のものも。
その隣にはガラスの破片が。
更に左には成形したガラスや、中にガラスが残ったままの型があった。どうも透明ガラスを土の型に入れて溶かし、装飾部品を作ったようだ。
いわゆる開放鋳型やね。
『OLYMPIA』は、玉座は金、黒檀、象牙、輝石、そしてガラスの象嵌を装飾部品として造られたという。

こういうものを眺めていると、イストミア博物館蔵の港と船を表したガラス・モザイク・パネルのような作品が生まれる素地がギリシアにはあったことが肯ける。
それについてはこちら
9の型に入れて溶かされ、そのまま冷めても取り出されることのなかったガラスをぎりぎりまで拡大。
ガラスが銀化している。
11のパルメット型ガラスも。無色透明だったガラスだが、色が付いたように見えるのは少し銀化しているからだろう。
こちらもうっすらと銀化。

中が空洞の土窯
この中で原料ガラスを入れた開放鋳型を熱し、ガラスを溶かして成形していたのか。
残念ながら大きさを忘れてしまった。
壁に掛かっていた説明。

フェイディアスの仕事場の展示室は、アカンサスの出現や、唐草文に繋がるような蔓草、そしてガラスの装飾部品などがあって、私にとってはまさに宝の山だった。

      オリンピア3 フェイディアスの仕事場← →オリンピア5 ゼウス神殿 

関連項目
ギリシア神殿5 軒飾りと唐草文
ギリシア神殿3 テラコッタの軒飾り
オリンピア12 オリンピアのトロスはフィリペイオン
オリンピア11 宝庫の軒飾り・棟飾り
オリンピア10 スタディオンの西に並ぶもの
オリンピア9 ヘラ神殿界隈
オリンピア8 博物館4 青銅の楯
オリンピア7 博物館3 ゼウス神殿のメトープ
オリンピア6 博物館2 ゼウス神殿破風の彫刻
オリンピア2 オリンピック競技のための施設
オリンピア1 遺跡の最初はローマ浴場

※参考サイト
日刊ギリシャ檸檬の森 古代都市を行くタイムトラベラーさんのアンテミオン墳墓 古代ミエザ

※参考文献
「オリンピアとオリンピック競技会」 ISMENE TRIANTI,PANOS VALAVANIS 2009年 Evangelia Chyti
「OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS」 OLYMPIA VIKATOU 2006年 EKDOTIKE ATHENON S.A.
「唐草文様」 立田洋司 1997年 講談社選書メチエ

2013年9月26日木曜日

ペロポネソス半島5 オリンピア3 フェイディアスの仕事場


オリンピアはゼウスの聖域だった。
『オリンピアとオリンピック競技会』は、現在のオリンピアの遺跡は、地震で倒壊する直前の最終段階に達した神域である。聖なる森”アルティス”の中の神域に、まず3つの神殿(ヘラ神殿、ゼウス神殿、そしてメトロン)が建てられ、そこから犠牲獣を捧げるための大祭壇、この地の英雄ペロプスに捧げられた聖所などが築かれた。こうした建物は、オリンピック競技会の開催を含む神域の機能を維持するために不可欠であったという。
オリンピアの遺跡に至るまでの松林、遺跡内に所々残る木々はアルティスの聖なる森の名残だった。

下図(『ギリシア美術紀行』より)では、アルティスの境界線というものがある。

12 アルティスの境界線 ギリシア時代のものとローマ時代のもの
『ギリシア美術紀行』は、聖俗二つの世界を分離する壁体、すなわちアルティスを限る境界(内側のそれがギリシア時代、外側のそれがローマ時代)とそこに入るための入口(プロピュロン、12と14がローマ時代)という。

ゼウス神殿前より。
どちらの時代のものかわからないが、確かに低い石垣らしきものが続いているなと思っていた。
聖域の外の通路より。
左側の高い方がギリシア時代、右側の低いものがローマ時代のアルティスの境界線。
⑭のローマ時代のプロピュライアは確かめなかった。その先の建物遺構は南浴場だろう。
同じく通路よりゼウスの聖域を眺める。右側がゼウス神殿。
人の通っている辺りの小さな石を積んだものがギリシア時代、左端の低いものがローマ時代のアルティスかな。

聖域に入る前に、ゼウス神殿にとって最も重要だったゼウス像が造られた工房へ寄り道。

5 フェイディアスの仕事場(前5世紀)跡に建てられたキリスト教聖堂 後5世紀
後陣の半円形の出っ張りが見えている。
その右隣にテレコイオンがあったようだ。
バシリカ式聖堂の西正面図と平面図 後5世紀
フェイディアスの時代から1000年も経って造られたとは言え、この聖堂跡も初期キリスト教会の建物として貴重である。
『オリンピアとオリンピック競技会』は、キリスト教徒はここに、後陣(東に張り出した半円形の部分)と円柱が立っている正面入り口、そして内部に3筋の身廊を有するバシリカ様式の教会を建てたという。
聖堂の前室。
同書は、建物のオリジナル部分は、下部構造(壁を形成していた切り石ブロックの一部)のみで、上部構造と内部は、教会に建て替えられた初期キリスト教時代に属するという。
中央の開口部から聖堂身廊へ。
聖職者と信者を隔てる後陣手前に造られた障壁、石板透彫のテンプロンが残っている。中央に丸に十字のマークがあるのだが、分かりにくい。
円柱にはあっさりした唐草文が浮彫されている。右の柱の基部にはアカンサスの葉もあった。
ここでフェイディアスがゼウス神殿に祀られたゼウスの坐像を造ったという。その痕跡を求めてきたのに、見てもよくわからなかった。
オリンピアの考古博物館には、仕事場の棟飾りやじっと遺構に使われたもの等が出土していた。それについては後日。

『ギリシア美術紀行』は、主室の内法12.57X18.418、前室のそれ12.57X10.34、高さ13.088m、この寸法はゼウス神殿の内室全体のそれと同一であり、フェイディアスはここでゼウス神殿の本尊、高さ12mに達した黄金象牙のゼウスの坐像を制作したのである。 
ここから発見された陶片は、大部分が前430年前後のものであったこと、したがってフェイディアスはアテナ・パルテノス像を完成(前438年)した後のいつかにアテナイを去って、多分パルテノンの最終的完成(破風彫刻の完成は前432年)を待つことなく、オリュンピアにやって来たのである。オリュンピアのゼウス像はフェイディアス最後の傑作だったのであるという。
平面図からすると、5世紀の聖堂の入口あたりでゼウス像を造っていたようだ。

オリンピア考古博物館第7室では、フェイディアスが使用した様々な道具や材料、仕事場の建物の棟飾りなどが展示されていた。
それについては次回

オリンピア2 オリンピック競技のための施設← 
               →オリンピア4 博物館1 フェイディアスの仕事場からの出土物

関連項目
オリンピア12 オリンピアのトロスはフィリペイオン
オリンピア11 宝庫の軒飾り・棟飾り
オリンピア10 スタディオンの西に並ぶもの
オリンピア9 ヘラ神殿界隈
オリンピア8 博物館4 青銅の楯
オリンピア7 博物館3 ゼウス神殿のメトープ
オリンピア6 博物館2 ゼウス神殿破風の彫刻
オリンピア5 ゼウス神殿
オリンピア1 遺跡の最初はローマ浴場

※参考文献
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「オリンピアとオリンピック競技会」 ISMEME TRIANTI PANOS VALAVANIS 2009年 Evangelia Chyti
「OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS」 OLYMPIA VIKATOU 2006年 EKDOTIKE ATHENON S.A.

2013年9月25日水曜日

ペロポネソス半島5 オリンピア2 オリンピック競技のための施設



日本のように起伏の多いギリシアにあっては、オリンピアは平たい土地に広がる遺跡という印象を持った。

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松林をしばらく歩いて、抜けた所はすでにギュムナシオンの途中の列柱廊だった。
知らず知らずの内に、ギュムナシオンの列柱廊跡の上を通ってきたようだ。

1 ギュムナシオン 前2世紀
中庭から建物で唯一残った東列柱廊を眺める。2列の柱列の向こうに壁があった。
当時は中庭を四方から列柱廊が囲んでいたので、外からは中で何をしているか見えなかった。
ギュムナシオンの南の端を遠望する。
『ギリシア美術紀行』は、南北に長い中庭、すなわち露天の体育練習場(南北の長さ220m)-幅跳び、槍投げおよび円盤投げなどのフィールド競技用-の四方を列柱廊(ストア)が囲んでいた。重要だったのは中庭側にドーリス式列柱を配した二廊式の東列柱廊で、その晴雨兼用の競争路の長さはスタディオン31の本競争路のそれに等しい長さを必要としたため192.27mに作られていた。
この施設の東南隅にヘレニズム建築上最美のものと思われるコリントス式前後4柱の三廊式玄関間(プロピュライア、前2世紀末)が付属していたという。

奥の柱の林立しているのはパライストラなので、プロピュライアはコリントス式柱頭が並んだ辺りだろう。
南北の通りから眺めたプロピュライアの想像復元図(『オリンピアとオリンピック競技会』より)

2 パライストラ 前3世紀
同書は、レスリング、ボクシング、パンクラティオンなどの角技用の練習場。4辺にドーリス式列柱廊をもつ中庭(南北41.42X41.52m)をたくさんの部屋が四角に取り囲んでいる。(南北66.75X66.35m)。中庭を廻る1辺19本のドーリス式柱は柱身半ばで切れる二石柱で、しかも廊に面した下半分には縦溝が施されていない。たくさんの部屋は雨天用練習場のほか、角技に必要だった更衣室、塗油室、浴室もしくは垢落砂室、さらに四辺にベンチが置かれていたことから青少年の弁論や哲学の教場になったとも考えられる北側中央の列柱の間などによって構成されていたという。
東側の入口から入っていく。ここには円柱ではなく角柱も見られる。
コリントス遺跡のアポロン神殿は一石柱(モノリトス)だったが、ここでは、柱の半分の位置で継いだ二石柱が並んでいる。
人影もなく、柱とその影が整然と並んでいた。この日は朝から快晴。遺跡はやっぱり青空の下でみたいものだ。暑いけれど・・・
この中庭も広大。
たくさんの部屋がこの中庭を取り囲んでいるというのは、中にいても想像できない。
こんな時、説明板の平面図は有り難い。
しかし想像復元図(『オリンピアとオリンピック競技会』より)はもっと有り難い。

11 レオニダイオン  前330年
ナクソス島のレオニダスが建て、聖域への公的な来訪者が使った(パンフレットより)。
ガイドのアンジェロさんは、有力者だけが泊まれる豪華ホテルと言っていたが。
同書は、島のような花壇を四方対称的に配置した巨大な水盤をもつ中庭、それを取り巻くドーリス式列柱廊、四辺に設けられた多数の客室、外側全体を飾る華麗なイオニア式列柱廊という。
遠望するにとどまった。
上空より見る(『オリンピアとオリンピック競技会』より)と、中庭の様子がよくわかる(右下)。
中庭はローマ時代(前1-後3世紀)に造られた(『OLYMPIA』より)。

30 スタディオンへの入口 長さ32.1、幅3.7、高さ4.45m 前1世紀後半(パンフレットは前3世紀末)
スタディオンとアルティスを区別すると共に、両者を結びつける通路という。
この穹窿天井はローマ時代のものか、ギリシア時代のものか?
ローマ時代なら、切石と赤い薄レンガを積み重ねた層が交互に積まれてるのでは。
両側の垂直だった壁が、ある高さの位置から前に迫り出しているのがわかる。
長い結界だったんだなあ。
このトンネルを通らずに上からやってきた人達。上を通れるなら、是非行ってみたい。

31 第3次スタディオン 前4世紀中葉
『オリンピアとオリンピック競技会』は、発掘調査により、オリンピアでは早くも前7世紀初めにスタディアムが存在していたと推定されている。最初のスタディアムは、トラックの距離が約200mの単なる平地にすぎなかったとみられている。前560年頃に南側の傾斜面が観客の座る場とされ、さらに前500年頃に西側の傾斜面も同様になった。初期のスタディアムは、現在のスタディアムの西方約75mに位置していた。スタート・ラインの脇に、ゼウスに捧げられた大祭壇が建立されていたと記されていることから、早い時期から運動競技と宗教が密接に結びついていたことがわかるという。
通路を出た所からスタディオンを眺める。
観客数の増加と神域の刷新に伴って、前470年頃にスタディアムは現在の場所に移され、規模が拡大した。オリンピア考古博物館に展示されている石灰岩のスタート・ラインの一部は、この年代に属している。われわれが今日見るスタディアムは発掘が終了した後に修復された前4世紀のスタディアムの姿であるという。
ロープが張ってあって入れない遺構もあるが、ここでは当時のスタート・ラインを踏んでも構わないらしい。右向こうの四角い区画が貴賓席。

スタディオンの南側には競馬場もあったらしい。競技会を行うところではどこでも、このような諸施設がセットになっていたということだ。

  オリンピア1 遺跡の最初はローマ浴場← →オリンピア3 フェイディアスの仕事場

関連項目

オリンピア12 オリンピアのトロスはフィリペイオン
オリンピア11 宝庫の軒飾り・棟飾り
オリンピア10 スタディオンの西に並ぶもの
オリンピア9 ヘラ神殿界隈
オリンピア8 博物館4 青銅の楯
オリンピア7 博物館3 ゼウス神殿のメトープ
オリンピア6 博物館2 ゼウス神殿破風の彫刻
オリンピア5 ゼウス神殿
オリンピア4 博物館1 フェイディアスの仕事場からの出土物

※参考文献
「ギリシア美術紀行」 福部信敏 1987年 時事通信社
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版
「オリンピアとオリンピック競技会」 ISMEME TRIANTI,PANOS VALAVANIS 2009年 Evangelia Chyti
「OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS」 OLYMPIA VIKATOU 2006年 EKDOTIKE ATHENON
 

2013年9月23日月曜日

ペロポネソス半島5 オリンピア1 遺跡の最初はローマ浴場


曇ったり、時雨れたりする空の下をミケーネからオリンピアへ移動した日の夜、窓の外には三日月が出ていた。
明日は晴れるかも知れないという期待の持てる夜となった

翌朝は快晴だった。
出発までの時間にホテルの近辺を散策していて、面白いものを見付けた。
風見鶏かと思ったが、全く動かないが、こちらが動くと鳥の形が見る方向で違って見える。煙突のカバーらしかった。
この地方独特のものかと思ったら、行く先々でお目に掛かった。
ホテルはオリンピアの町外れにあったので、町を見下ろしながらバスは遺跡に向かって行った。
左下がオリンピアの街並み、中央右寄りの山の中にあるのは考古博物館。
そして町に入ることもなく、かといって遺跡が見えるわけでもないこんな所で下ろされてしまった。
町の南東にオリンピアの遺跡は広がっている。

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オリンピアは緑の多い町で、もう花の季節は終わってしまったと思っていたが、野花がちらほら咲いていた。
クラディオス川の橋を渡る。正面に見える山はクロノスの丘と呼ばれている。オリンピアの遺跡はゼウスの聖域で、クロノスはゼウスの父。

『古代ギリシア遺跡事典』は、真夏でもアルカディアから清冽な水が流れ下るアルフェイオス川のほとり、鬱蒼とした松の木におおわれたクロノスの丘の麓に広がるゼウスの神域オリュンピア。古代オリンピック競技会が創始された前8世紀からキリスト教の普及によって廃止される後4世紀末までは、まさに古代地中海文明の時代そのものだった。

競技会は古代ギリシアの各地で行われていたが、そのなかでもオリュンピアを筆頭とする4つの競技会(オリュンピア競技会、ビュティア競技会、ネメア競技会、イストミア競技会)は、「冠の競技会」として特別視され、広く古代ギリシア世界の各地から参加者を集めていた。というのは、これらは古い由緒を誇るばかりではなく、そこで優勝した者に与えられるのが、あくまで名誉の象徴であって金銭的な価値のまったくない植物(オリュンピアでは野生のオリーヴ、ビュティアでは月桂樹等)の冠だけだったからであるという。
イストミアについてはこちら
しかし、このことは逆に、その冠に絶大な価値を与えることになった。一介の農民の息子からローマ皇帝まで、ギリシア文化をともにする地中海世界の隅々から、人々はかけがえのない名誉を求めてオリュンピアのような聖域に集った。そのなかにあって、最古の歴史を誇るオリュンピアは、さらに別格だったのであるという。
現代ではその遺跡を見学する人々が世界各国から集う地。

森の中を歩いて行くと、左側に早速遺構を発見。
実はクロニオンの浴場跡があるはずと見当をつけていた。
ロープが張ってあり、中には入れないが、思ったよりも広い。
説明板に北上空から写した浴場跡の写真があった。
「OLYMPIA」は、聖なる道を進むと、左側に最初に現れる建物は、クロニオンの浴場または北の浴場である。ヘレニズム時代の浴場の上にローマ時代に築造された、複合的な大きな建物である。柱廊はローマ時代の豪華なモザイクで装飾されていた。モザイクは、海馬に牽かれる戦車のトリトン、イルカに乗るネレイスなど。地震で倒壊したが、後3世紀に再建されて大きくなったという。
写真ではよくわからないが、平面図で、ローマ浴場に特徴的な、アプシスのような半円形の出っ張りが3室に設けられている。
ポンペイのスタビア浴場ほど整ってはいないが、熱浴室や冷浴室などがあったようだ。
 これがトリトンのモザイク。周囲の文様帯に卍繋文がある。

その南側に、クロノスの丘の裾にも遺構があった。

17 プリュタネイオン 
『オリンピアとオリンピック競技会』は、神域の北東端に建っていたプリタニオンは、中庭を中心として、その周囲にいくつかの部屋が配置された四角形の建物である。プリタニオンには「かまど」の女神ヘスティアに捧げられた祭壇があり、そこには一年中絶えることなく聖なる火がともされていたという。オリンピック競技会の初日に犠牲獣がこの祭壇に捧げられる慣わしであった。中庭は会食の場としても使用され、競技会での優勝者を祝する晩餐会が催されたという。
オリンピックでは重要な建物跡だった。
想像復元図だけを撮っていた。眺めている通路の近くには門もあったらしい。
祭壇は中央の部屋にあったのだろう。
やはり中には入れないので、適当に写真を写したら、向こうにヘラ神殿やトロスが入っていた。

      ミケーネ9 トロス墓← →オリンピア2 オリンピック競技のための施設

関連項目
スタビア浴場を見学したかった理由
オリンピア12 オリンピアのトロスはフィリペイオン
オリンピア11 宝庫の軒飾り・棟飾り
オリンピア10 スタディオンの西に並ぶもの
オリンピア9 ヘラ神殿界隈
オリンピア8 博物館4 青銅の楯
オリンピア7 博物館3 ゼウス神殿のメトープ
オリンピア6 博物館2 ゼウス神殿破風の彫刻
オリンピア5 ゼウス神殿
オリンピア4 博物館1 フェイディアスの仕事場からの出土物
オリンピア3 フェイディアスの仕事場

※参考文献
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2003年 東京堂出版
「OLYMPIA THE ARCHAEOLOGICAL SITE AND THE MUSEUMS」 OLYMPIA VIKATOU 2006年 EKDOTIKE ATHENON S.A.