お知らせ

やっとアナトリアの遺跡巡りを開始しました。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2015年5月28日木曜日

サマルカンド アフラシアブの丘を歩く


サマルカンドの元の街はアフラシアブの丘にあった。
「AFROSIAB」は、現在のサマルカンドの北に200ha以上にわたって、黄色い丘が住む人もなく広がっている。
かつて、中央アジアで最も大きな街の一つであった。その生活は最高潮に達していた。豊かな商業の街で、古代ソグディアナの首都であったサマルカンドは、13世紀までこの丘にあったという。
チンギスハーンに破壊されたその街は、今でもこの丘に眠っている。

同書は、アフラシアブの丘の考古学的発掘は19世紀末に開始され、現在まで続いている。11の歴史的な層が発見された。
サマルカンドは何度も破壊されたが、不死鳥のように灰の中から蘇った。歴史学者は街の年齢がどれくらいかを言いよどんだ。1960-70年に、考古学者が、街は2500年も存在していたと想定した。最新の考古学的調査では2750年以上と断定されたという。

今まではフランスの考古学隊が発掘していましたが、近く韓国の調査隊が発掘することになりました
念願かなってその丘を見学することができた。丘の南東部にあるサマルカンド歴史博物館の西側から入って行く。
道ができていた。
すぐに北側に遺構があり、その奥には新しい市街地が広がっている。
同じところから反時計回りにカメラを移動していくと、かなり大きな建物の跡。
その奥の高い箇所に、人工的な切れ込みが見える

地面には無数の土器の破片が今でも残っている。

遠くにビビ・ハニム・モスク。道が続いているので行ってみる。
先ほど見かけた切れ込みと手前の遺構。
その続き。日干レンガで築かれた建物のはずだが、その面影が見えない。

行けるところまで行ってみよう。
右手にはまた大規模な建物跡が露出。
部屋の仕切り壁が残っているのか、それとも1軒1軒の家の集まりかな。
壁に穴があいて、向こうが見えていたりするところもある。
遺跡を見学できるように、埋め戻さずにしておいたのだろうか。

向こう側にまわって同じ遺構を眺める。
確かソグド人たちは、日干レンガで三階建ての建物で暮らしていたはず。しかし、これが何階部分なのか、全くわからない。
先ほどの三角の穴がこちらからも見えた。アーチ状の出入口ではなかったのかな。
あの丘の上へ。
振り返るとアーチ形の開口部だった穴がよく見えた。

丘の上からさきほどの遺構を眺める。
あの開口部のある部分から左側の遺構。
その続き、
さらに左側、
無数に遺構が顔を出している。それとも発掘調査したまま埋め戻していないのだろうか。
間がちょっと切れてしまったが、左遠方にビビ・ハニム・モスクが見える方向の遺構。
そこかしこにアーチ形の開口部が見えている。
これでほぼ一巡。
こんな遺跡でも、普通に家畜の放牧をしているところが何とものんびりとしているなあ。

先ほど眺めていて気になったのが、この遠くに見える建物跡のようなもの。
できるだけ拡大してみると、一段高い丘へと続く斜面に確かに何かがある。

サマルカンドの街に入る前にSAMARQANDと書かれた斜面のあった丘が遠くに見える。
あっ、もう戻る時間。右奥の白い歴史博物館の方へ急がねば。

歴史博物館で見たアフラシアブの丘の地形図のXくらいまでは行ったのかな。

その後、バスで近辺を走っている時に、城壁が見えた。
この城壁は日干レンガで造られた痕跡が認められる。


2015年5月27日水曜日

アムール・ティムールの門を通ってサマルカンドへ


ウズベキスタンの地図

右手に城壁の遺構かと思うような連なりが見えてきて、通り過ぎたと思ったら水路が見えた。幅広の水路を掘った残土が遺跡のように積み上げられているらしく、遠くの方まで続いていた。
遠くにはまだその残土の壁があるが、近くには高架式の水路が縦横に走っている。牛や羊の放牧はあちこちで見られた。

所によっては菜の花畑も広がっていた。

ジザクという町で二度目のトイレ休憩の後、踏切に遮断機が下りていた。
マリカさんは、皆さんはラッキーです。なかなか通らない列車を見ることができましたという。
踏切の右の小さな建物の屋根で作業をしている人が手を振っている。

やがてザラフシャン川を渡る。最近雨が降ったのか、水かさは高くないものの、濁流の川だった。
町を過ぎると右岸に先ほどの鉄道が見えてきて、道路も右カーブのまま、両側が岩の崖となった狭い箇所へと吸い込まれていく。
アムール・ティムールの門です。ティムールはここを通って中国へと遠征しましたが、途中で亡くなりました。このあたりは美味しい蜂蜜の産地です
サマルカンドのシヨブ・バザールでも売っています
先ず右側の崖を撮る。

しかし、左側の崖を撮ろうと振り向くと、もう遠くに去ってしまっていた。
右手に川と低い山並みという風景が変わる頃、アフラシアブ号がタシケントに向かって走って行った。カメラを取り出すヒマもないくらい速かった。

いつの間にか左の車窓には雪の残る天山山脈が現れていた。
手前の葡萄畑には、やっと葉の出始めたブドウの木の間に、真っ赤なケシの花が目立つ。
トルファンでは葡萄棚を作っていたが、ウズベキスタンではヨーロッパと同じ育て方だ。どのあたりで変わるのだろう。
そういえば、ラクダも中央アジアでフタコブとヒトコブに分かれるという。
天山山脈に見とれていると、段々ほこりっぽくなってきた。
前方を見ると舗装工事中の道路を行く車のたてる土埃だった。
天山山脈がまたくっきりと見えてきた。
右側にはCHOPON’OTA SAMARQAND-2750と山肌に書かれた文字が見えた(何故か写ったのはその右半分)。川を渡るといよいよサマルカンドの街。

街に入って中心部を抜け、ザリファさんの民家レストランへ、もう13時30分。

ここには葡萄が棚になっていた。ひょっとすると、中央アジアでは棚にするのが伝統的で、道中で見かけたヨーロッパ風の葡萄栽培は近年採り入れられたものかも。
果樹の植わった中庭の先にテーブルが用意されていた。
暑い季節には家族で中庭で食事をするという。
前菜の数々とウズベキスタン一美味しいといわれるサマルカンドのナン、小ぶりのリンゴ。
中央の生野菜の上にニンニクが一株のっている。勇気のある人が挑戦したが、日本のと同じ強烈な味だったという。
食器はウズベキスタンの花、綿花(パフタ)を表した濃い染付の磁器。
銘々皿に前菜を盛る。
左から手前に、浅漬け、レーズン、小さなピーナッツ、素揚げしたヒヨコ豆、ヨーグルト。
パン皿に焼きたてのサムサが配られた。
お皿には、濃紺の釉薬を塗り残して文様にした綿の花の輪郭を細い金の線で描いている。それが文様からずれているのが味わい。
そして食べたかったウズベキスタンの伝統料理プロフ。黄色や赤のニンジンは、パプリカかと思うくらい柔らかかった。
プロフが西に伝わってフランスのピラフとなり、東に伝わって中国のチャーハンになりました
シルクロードの中央に位置する国ならではの言葉である。
デザートはチャクチャク
細長い麺状のものを揚げて密に浸し、固めたものを切ったよう。甘すぎなくて良かった。
壁際にはナンを焼く窯、おくどさん、そして薪。民家の代表的な台所が再現されている。

      タシケントからサマルカンドへ1←  →アフラシアブの丘を歩く

※参考文献
「UZBEKISTAN The Great Silk Road TOURIST MAP」 Cartographia 2009年