2015年11月30日月曜日
カラカルパクスタン3 トプラク・カラ遺跡2
『埋もれたシルクロード』は、研究の結果、この都市が発生したのは1世紀であることが判明した。そして内城の発掘資料は3世紀から4世紀初頭に比定されている。しかしこの時代は、トプラク・カラ城の終末期であり、したがって宮殿のすべての建物群は長い年月にわたって形成されたものと考えられる。いくつかの建て直し、扶壁の構築、通路や一部の部屋全体の煉瓦の基礎などがこのことの証明となるであろう。壮大な王宮=内城は、都市の建設と同時に、あるいはその建設直後に造営されたと考えられる。その後、この巨大な建物は、都市の建設と同時に、あるいはニサにおける儀礼用の建築と同じように、数世代の間に形を変更させられ、つくりなおさせたにちがいないという。
その内城は左奥(北西)の3つの塔とその間にある部屋が含まれている。現在トプラク・カラ遺跡で遺構の残っている箇所である。
南にある塔Ⅲから、丸い部屋と呼ばれる大きな二重の円の彫り込みが壁面に並んだ部屋が近くにあるので、そこに行ってみたくなった。
部屋と部屋を行きできる開口部発見。どこかに建物の床まで下りるところはないのかな。
部屋と部屋を結ぶ開口部はあちこちの壁にあるけど
しかし、探し回るほどのこともなく、この壁から、
下りることができた。
二重に彫られた大きな円は、大きさはほぼ一定だけど、高さは揃っていなかった。
壁面の色は、太陽との関係でいろいろに写るが、実際はこんな色。
2つの開口部があったが、明るい西側の部屋に入り、
進んでいくと、こんな風にヴォールト天井の通路が続いていたりして、
土管が縦に並んでいて不思議。
土器片も放置されたまま。
壁面が何枚もの皮が剥がれかけたよう。日干レンガを一列積んでは泥または粘土を塗り、日干レンガを積みという風に厚くしていったのかな。
その前の斜路(もちろん元は高い壁だった)を通って、
途中に元はアーチ形だった開口部を見たりしながら、
上の方に出ると、塔Ⅱや4つの壁龕のある部屋などが遠くに見えた。ここからはまだだいぶ部屋がありそう。狭いのは廊下?倉庫?
目指すは塔Ⅰ。
さっきまでたくさんの部屋がひしめき合っていたのに、少し動いただけで、全く別世界のようにのっぺりしてしまった。
塔Ⅰ近くには、壁が斜めに残った遺構の方に行ってみる。
アーチ形のなくなった開口部から入った細長い部屋は、隣室に抜けるたくさんの通路、或いはアーチ形壁龕があったが、崩れ落ちた壁の土でほぼ埋まっている。
その部屋から戻って、右手のアーチ形通路に行ってみると、
部分的に欠けてはいるが、ヴォールト天井の残った部屋があり、そこから抜ける通路がなかった。高い天井のこの部屋は倉庫にでも使われていたのだろうか。
といったところで時間切れ。
迷路から抜け出すと、塔Ⅲの東壁がよく残っているのが見えた。
塔Ⅰの下、バスが集合場所。
その向こうに広がっているのは、The Karakalpaksによるとトプラク・カラ2という遺跡らしい。
宮殿と神殿の複合体。14の建物と祭儀用の通路、くつろぎのための柱廊と中庭などを含んだ、幾分儀式的で宗教がかった居住のための豪華な続き部屋があるという。
それにしても、このような都城やそれに付属する建物群を造っていたのはどのような人々だったのだろう。
『埋もれたシルクロード』は、砂漠とオアシスの境界にその首都を造営したホレズムの支配者たちは、そもそもなにものであったのだろうか。その宮廷の工匠たちは、そもそもいかなる勝利をたたえたのであろうか。この地に奴隷や捕虜を提供したのはどのような国々であろうか。
1-3世紀といえば、中央アジア南部およびアフガニスタンの地域に強大な新しい政治的統合であるクシャン帝国の形成された時期である。まもなく、この新しい「王中の王」の宗主権はインドスタン北部の多くの地域からも認められ、一方クシャンの軍隊は東トルキスタンにおける政治的優位をめぐって中国の軍隊と戦いをすすめていた。ただし、この新国家の北境が中央アジアのどこまで達していたか、必ずしも明確には知られていない。
現在では、1-3世紀、すなわちホレズムにおけるクシャン国家の支配期と推定される時代を治世とするホレズム王の貨幣も発見されている。これらの貨幣はすべて正真正銘のホレズム型のものである。そこに見られるのは伝統的なホレズム王朝のもので、貨幣によってわれわれがよく知っているクシャンのものではなかった。そのほか、ホレズム地域で発見されたクシャン貨幣の圧倒的大部分には、ホレズム王朝のシンボルの一部が刻印されていた。われわれはホレズム以外に、クシャン帝国の貨幣が現地の支配者によってこれほど不遜につくり変えられた例を知らないのである。このようにして、ホレズムがクシャン帝国領内にはいっていたことについて、あるいは少なくとも、クシャンの支配が確固として長期間にわたるものであったことについて、十分な根拠をもって疑いをさしはさむことができたのであるという。
ホレズムがクシャン領ではなく、独立した国家だったことはわかったが、どのような民族だったかは述べていない。
『シルクロードの古代都市』で加藤九祚氏は、中世初期の中央アジアのソグドなど小国家に関して、『隋書』や『唐書』に出てくる「昭武」(Šao-wo)についてである。そこでは「六姓昭武」とか「九姓昭武」の形で出ているが、これは「昭武」という姓を名のる6つの国、または9つの国をさしている。この場合、その中心をなすのは康国、つまりソグド(粟特)であった。ここでいう「姓」とは支配者たちの元祖の名をさしている。つまりソグド国をはじめとする6か国または9か国はみな「昭武」の子孫だという。
ところで「昭武」とはなにものか。かつて日本のすぐれた東洋史家・白鳥庫吉はその論文「粟特国号」(1924年)の中で西欧の学者たちの説を紹介し、それぞれについて自分の見解をのべた。その中で白鳥博士はオーストリアの著名な東洋史家トマシェク(W.Tomasehek)の所説として、昭武がイランの大詩人フィルドゥシー(934-1025年)の叙事詩『シャーナーメ』(王書)に出てくる伝説の英雄シャウシュ(Siyāwūś)であるとの説を紹介している。
つまりソグド国をはじめとする6か国なしい9か国の王たちは、みなイラン系の人びとで、自家の門閥を飾りたいがために、イラン民族が崇拝するシャウシュという英雄の名をとって自分たちの先祖にしたというのであるという。
同書は、中央アジア史に関心を持つ筆者は、ホラズム史の有名な学者ラポポルト(Yu.A.Rapoport、1924年生まれ)の論文「古代ホラズム略史」(1998年)の中でつぎのような記述を見つけた。
「アレクサンドロス暦616年(紀元305年)、ホラズムの新王朝の祖であるアフリグはキャト市の近くにアル-フィル城を築いた。トプラク-カラ城の宮殿や神殿はこのとき放棄されたと見られる。しかしアフリグは、彼以前の王朝の王たちと同様に、自らがシャウシュとケイ-ホスローの子孫であるとし、以前の神聖な施設は破壊することなく、ある期間保存した」。
ケイ-ホスローはシャウシュの子である。これによってトマシェク説は大いに補強されたことになる。ホラズムは火尋国(ホラズム)として九姓昭武の一つに入っている。なお、白鳥博士はトマシェク説に賛成していないという。
一応ラポポルト氏の説に従って、この時代にホラズムに住んでいたのは、東方アーリア系の人たちということにしておこう。
カラカルパクスタン2 トプラク・カラ遺跡1←
→アムダリヤを渡ってヒヴァへ
関連項目
カラカルパクスタン1 アヤズ・カラ遺跡
※参考サイト
古代世界の午後の古代ホラズムの遺跡一覧
The Karakalpaks
ユネスコのAncient Khorezm
※参考文献
「埋もれたシルクロード」 V.マッソン 加藤九祚訳 1970年 岩波書店
「シルクロードの古代都市-アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波書店
NHKスペシャル「文明の道3 陸と海のシルクロード」 NHK「文明の道」プロジェクト 2003年 日本放送協会
2015年11月26日木曜日
カラカルパクスタン2 トプラク・カラ遺跡1
続いてトプラク・カラへ。
『埋もれたシルクロード』は、ホレズムも、1世紀以後南アジアの各地で見られる盛んな商品流通とある程度関連していた。古代ホレズム諸都市の廃墟からは、輸入されたエジプトのベス神像や黒海北岸のギリシア諸都市でつくられたと思われるビーズ玉が発見された。しかし主要な交易路は、当時の文明世界の北方に忘れ去られているホレズム・オアシスを避けて通っていた。それだけに、古代ホレズムの王宮址であるトプラク・カラはいっそう強烈な印象を与える。これの建設には明らかに多くの労力と資力が費やされたにちがいないのである。
トプラク・カラは、ホレズムの基盤におけるバクトリア的形式の表現であるかのようである。このプランと建築上の特徴を形成する上で、無名の多くのホレズム建築家が活躍したにちがいない。1世紀、かれらの構想によってホレズム右岸にこの新都市が出現したが、それは当初から首都として構想されたと思われる。シャーナーメ(王書)の一主人公はまさにそのように行動している。
勇士がその国につくやいなや
高さと幅それぞれ2ファルサフの見事な都市を建設した。
それには広場、宮殿、菜園、果樹園がついていた。
そして工匠を招いて、王の戦闘と饗宴の図をその宮殿に描かせた。
現在、トプラク・カラ都城址は、平面図で見ると、城壁でかこまれた350X500mの矩形をなしていた。城壁には一定の間隔ごとに、多数の矢狭間のある直角の塔がつらなり、都市の中央には幅約10mの大通りが走っていた。そこから直角をなして横の小路が通じ、都市をいくつかの四角な区域に分けていた。都市のこの居住区域とは対照的に、トプラク・カラの北部に3つの塔をもつ内城がそびえていたという。
3つの塔というのは、復元図の左上隅の3つの角塔のことらしい。
今回も、『古代世界の午後』さんの古代ホラズムの遺跡一覧から引用させていただくことにする。
古 代ホ ラズム王国首都トプラク・カラ遺跡
座標41.928368,60.822372(41°55'40"N 60°49'18"E)
上記Kz'il-karaの東1.3km地点
Scale 200m
平面図と復元図がユネスコ資料に掲載されている。2-3世紀に建設され、6世紀以降まで存続した(The Karakalpaksの記事はこちら)。
この図で見る限りで遺構として残っているのは、かなり崩壊した四方の城壁と北西隅の一角、つまり、3つの塔をもつ内城部分で、ここを見学したのだった。
『埋もれたシルクロード』は、都市の隅に、高さ12mの台地に支配者の宮殿があったが、、それは事実上防備のある内城であった。宮殿の主要部分は6400㎡の四角形をなしていた。その外壁は突き出た扶壁の列によっていくつにも分けられていた。それが垂直に高くのびている状態は、宮殿=内城を一般市民の家屋の上に高くそびえさせようとする意欲を示していた。しかし時代とともに、この建築方式は東方の絶対君主を満足させなくなった。そこで才能ある建築家たちは大胆な新解決を見出した。すなわち既存の内城=宮殿に、それぞれが40X40mの3つの巨大な塔を付加したのである。これらの塔は今では崩壊して高さ25mになっている。このようにして、全建物群は比類のない高いシルエットを形成し、ホレズムの地の「不思議な都市」の景観を飾っている。
内城=宮殿の内部にはさまざまな部屋がつくられた。全体のシルエットが3つの塔を築くことによって規定され、閉ざされた範囲内でさまざまな建物をもっとも合理的に配置することだけが残されていた。その結果、全宮殿が多くの部屋をもつ巨大なひとつの建物であるような観を呈し、豪華な大広間、生活するための部屋、作業場などをともなう複雑な迷路を形づくっているという。
実際に見学していくと、
内城の北西側の塔(塔Ⅰとする)の東側から高さ12mの台地へ登っていく。前方にヴォールト天井の部屋が3つある。内城の部屋になる。
ある程度登ると左手には棒が等間隔で突き出た壁面に囲まれたような窪地があった。その向こうの盛り上がりが北東側の塔(塔Ⅱとする)ということになるのかな。
その間の通路を進むと、
先ほどの突き出た棒の列のある壁面が間近に。
The Karakalpaksに添付されている内城の平面図(Rapoport&Nerazik,1984)によると、これは塔の壁面ではなく、3つの塔とその間にある部屋などの周囲を巡る土台の壁面であるらしく、突き出た棒は、もっと分厚い、しっかりした壁面が建設されていたことを示している。
そしてその上には塔Ⅱ。
上の方では日干レンガの一つ一つがまだ分かるが、下の方では殆ど土の層と化している。
遠のくと塔Ⅱの南面が現れ、内部がのぞいている。
平面図にあるように、倉庫のような細長いヴォールト天井の部屋が並んでいる。
平らで大きな空間に出た。向こうに見える山のようなものが、3番目の塔(塔Ⅲとする)。
塔Ⅲに向かって進むのではなく、日干レンガの壁の外側へ。
凹凸のある東壁に沿って進むと、
部屋のような大きな窪みと突き出した壁で終わる。
その向こうには区画のある斜面と塔Ⅲ。
そして、先ほどの壁面の南側には、4つの尖頭壁龕が並んでいた。
The Karakalpaksにはこの壁面のある部屋を諸王の広間とする平面図(Rapoport&Nerazik,1984)と、諸王の広間の南側の間とするDavid Richardsonの実写に説明をつけたものとがある。
『埋もれたシルクロード』は、「諸王の広間」と名づけられた面積約280㎡の細長い部屋がある。この広間の壁は、黄色い地と青い地に赤い花白い花を描いた壁画でおおわれていた。ここには焼かれない粘土で、花と果実の花綵の形でつくられたレリーフもあった。壁に沿った高い台上には彫刻群がつらなっていた。これは今日、塑像の破片として伝わっているという。
この壁龕については記述がない。これが諸王の広間なのか、この奥の部屋のことなのか・・・
手前の土の盛り上がりは、当初の壁、つまり部屋の仕切りだったのかな。
その南側の部屋は広く、平面図の諸王の広間にあたるのではないだろうか。
塔Ⅲに至るまでにも部屋がたくさんありそう。
トプラク・カラ宮殿の北壁と東壁を眺める。
塔Ⅲの方から塔Ⅱ方面を眺める。
振り返って西壁の痕跡
塔Ⅰと、2つの塔の間にある部屋を見渡す。
少し右へ目を移すと、
勝利の広間、戦士たちの広間、玉座の広間、そして踊る仮面の広間と続く(The KarakalpaksのDavid Richardsonの実写に説明をつけたものより)。
手前のL字形の部屋には二重に大きな円形を彫ったものが並んでいて、David Richardsonの実写に説明をつけたものでは円の広間と呼んでいる。
この円の広間に行ってみたい。
カラカルパクスタン1 アヤズ・カラ遺跡←
→カラカルパクスタン3 トプラク・カラ遺跡2
※参考サイト
古代世界の午後の古代ホラズムの遺跡一覧
The Karakalpaks
ユネスコのAncient Khorezm
※参考文献
「埋もれたシルクロード」 V.マッソン 加藤九祚訳 1970年 岩波書店
2015年11月25日水曜日
カラカルパクスタン1 アヤズ・カラ遺跡
ヒヴァへバスで移動。途中でカラカルパクスタンのカラに立ち寄るのが本日の行程。
ブハラはもとはステップ気候で、3年前はこんな緑はなかったという。
西へ向かうにつれ乾燥した土地になってくる。
道路工事が続いているので、移動に時間がかかる。山もなくなり、ただただ広い平原が広がっている。そんなところなので、中央分離帯もこんなに広い。
やがて、舗装道路もなくなって、ますますバスは揺れ、スピードも落ちてきた。
『旅行人ノート⑥』は、ホラズム地方はホラズム州を中心としたアムダリヤ川下流のデルタ地帯のことであり、今ではウズベキスタンとトルクメニスタンの2国に分離されている。
ここではアムダリヤ川の水を使った灌漑農業により、非常に早くから都市が発生し、以後現在に至るまで、マーワラー・アンナフルと呼ぶ、中央アジアのオアシス都市の中核となった。しかし同時に非常に乾燥した気候のため、川の流れの変化の度に、しばしば都市は消滅した。ホラズム人はもともとイラン系の定住民だったが、8世紀のアラブの侵入後イスラム化が進んだことと、11世紀頃からテュルク系遊牧民の支配を受けるようになったため、ヒヴァ・ハーン国の時代までに大半がテュルク化されてしまった。現在でも住民はウズベク、トルクメンなどといったテュルク系民族で占められるという。
ホラズムまたはホレズムと呼ばれる一帯の中にカラ(城)と呼ばれる遺跡が多く残るところがあり、そこをカラカルパクスタンというのだと思っていたが、カラは黒色、カルパクは先の尖った帽子で、スタンは土地です。黒い尖った帽子を被る人たちが住む土地という意味ですとガイドのマリカさんが教えてくれた。カラとは関係なかった。
長々とバスで移動して、やっと見えてきた前方の山にアヤズ・カラの遺跡があるという。
山の上に何か見えてきた。
山の上だけでなく、手前の丘の上にも遺跡がある。山肌も色彩豊か、遺跡も色とりどり。
アヤズ・カラについての本がなかなか見つからないので、検索してあるページに出会った。それは、古代世界の午後という素晴らしいホームページのなかのコラム春田晴郎氏論説「古代 ホラズムの「家」と「しもべ」」と古代ホラズム遺跡サイトの紹介で、リンク、引用フリーということなので、どちらもさせていただくことにした。
『古代世界の午後』さんは、Google Mapで確認した遺構の画像と簡単な解説、古代ホラズムの遺跡一覧を作成したという。その中にアヤズ・カラもある。
その上、David and Sue Richardson氏のThe Karakalpaksというサイトまで、労なくして知ることができ、有り難い限りである。
8.アヤズ・カラ1、 2
座標42.012491,61.028087
Scale200m、図面あり
右上城砦がアヤズ・カラ1.東西150m。前4世紀に建設され後1世紀 迄存 続。避難所として中世初期まで利用された。中央の丘の上の楕円(7-8世紀建設の要塞)とその西方へ伸びる回廊 の先にある宮殿跡(4世紀に建設)がアヤズ・カラ2.宮殿ではアフリーグ朝(Afrighid)の Bravik 王の貨幣が出土し、2度の火災で崩壊したが、6-7世紀に再度居住された跡があるとのこと(The Karakalpaksの記事はこちら)。
いつの頃からか、Google Eearthを添付できなくなっています。できるようになったら、その図と入れ替えます。
左手にユルタが見えてきた。
山の上の遺構は一列に並んでいて、城壁の一辺が見えているようだ。
城壁を通り過ぎてしまいそう。
右折すると次の一辺が現れた。こちらには一定間隔で並ぶ監視塔が残っている。
そしてユルタに到着。手前の境界にしている石の列の手前にたまった僅かな砂が風紋を作っていた。
ユネスコのAncient Khorezmに詳しい説明があった。
アヤズ・カラには3つの要塞があり、最も古いのがこの丘の上のアヤズ・カラⅠである。キジル・クム砂漠の端で、遊牧民の襲撃に対する防御と、シルダリアデルタの地からサカ族を北方に追いやるためである。
アヤズ・カラⅠは2.7haの長方形平面。高さ10mの壁が残っていて、規則的に塔のスペースがあり、二階建ての射手の通路と矢狭間がはっきりと認められる。下階の通路は地表のレベルにあり、ヴォールト天井は今でも残っていて、見学者はその中を通ることができる。前4世紀頃に通路のある囲いが造られた。前3世紀頃に丸い塔が付け足された。複雑な入口はホレズムの要塞に特徴的なものである。がっしりした入口は2つの角塔に守られて、小さな正方形の空間へと導く。第1の門を敵が破ったとしても、そこでは射手が四方の高い壁から見下ろして敵を射ることができただろう。要塞は、1世紀頃までは使われていたと思われるという。
その拡大
円筒形の監視塔は、下の方からは見えなかったが、基部は残っていた。
監視塔の残っている箇所と
ほぼなくなっている箇所
城壁はほぼ間隔を同じくして、縦に溝が入っている。もちろん風化でこのようになってしまったのだろうが、そこには矢狭間があるようだ。そのような隙間を作ったために、こんな風化の仕方になってしまったのだろう。
低い丘の遺跡はアヤズ・カラⅡ
小さく概ね楕円形の要塞で、西側の平地にある居留地と繋がっている。要塞は中世、7-8世紀頃、アフリーグ朝のものである。パフサの土台に日干レンガで壁が造られ、壁の頂部は矢狭間がある。内部構造はよく残っていて、内部の床は下の部屋の天井である。ヴォールト天井の遺構は劣化した箇所で見ることができる。斜路は要塞の門から丘の裾にある宮殿のような建物の入口に繋がっている。この宮殿は、中央アジア全域の中で、中世初期の最も美しい建物であるとされている。大きな円柱の並ぶ広間、華麗な腰掛け、儀式用の舞台、壁面、そして火の聖域がある。アフリーグ朝ホレズムの王たちのコインはここで発見された、特にブラヴィク王のものが。この宮殿は4世紀頃に建造され、連続した二度の火災によって破壊された。6、7世紀頃には短期間地域の民が住んでいたという。
下の方に見える白い土の盛り上がりがその美しい宮殿だったところかな。上の要塞と繋がるというけれど、時代が異なるので関係ないのでは。
さて、アヤズ・カラⅠを遠望できる丘の上のユルタの一つで遅い昼食となった。
靴を脱いで座って食事するので、思ったよりも広々としている。
上の2品が前菜、後はデザート
山と積まれたナン
スープの後にメインの肉料理。
アヤズ・カラⅢという遺跡は少し離れた平地にあるため、バスからは見えなかった。
平行四辺形でアヤズ・カラⅠの下の平地にある。城壁は二重で、角塔によって四方から守られている。西壁の中央に門がある。5haの広さで、城壁は1-2世紀頃のものだが、内部の北東にある建物はもっと早く、前5-4世紀頃のものである。アヤズ・カラⅢは、後1世紀頃のクシャーン朝時代には兵士の駐屯地か統治者の邸宅かも知れない。城壁の周囲には、ささやかな住居、農地、農地を囲む壁、そして葡萄畑のある多くの農場が発見されているという。
当時は今ほど乾燥していなかったのだ。きっとアムダリヤ川の流れが近かったのだろう。
→カラカルパクスタン2 トプラク・カラ遺跡1
関連項目
カラカルパクスタン3 トプラク・カラ遺跡2
※参考サイト
古代世界の午後の春田晴郎氏論説「古代 ホラズムの「家」と「しもべ」」と古代ホラズム遺跡サイトの紹介とGoogle Mapで見る古代ホラズムの遺跡
The Karakalpaks
ユネスコのAncient Khorezm
※参考文献
「旅行人ノート⑥ シルクロード 中央アジアの国々」 1999年 旅行人
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