お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2008年5月31日土曜日

2日目-13 半月城(パンウォルソン 월성)で寝ころぶ


7号線を走り続けて慶州博物館の駐車場の交差点を越えると、半月城が見えた。 ここでちょっとカメラ休憩、16:52。思ったよりも大きいなあ。沼地の中にあるみたい。行く方向に菜の花畑がある。菜の花畑を過ぎると半月城に入る道まできた。おっちゃんは自転車を駐めている。
自転車を引いて行かへんの?
こんなもん引いてお城に行けますかいな
向こうから自転車に乗った人がくるけどね。すぐに広場に出た。説明板によると、所在地:慶州市仁旺洞387-1
ここは新羅時代の宮殿があった場所である。地形が三日月のようになっていて、「新月城」または「月城」と呼ばれた。朝鮮時代からは「半月城」と呼ばれて今日に至る。昔脱解王が幼い頃、瓠公という人がここに住んでいたが、昔脱解王が策を企ててここを占拠したという伝説がある。その後、娑婆王22年(101)にここに城を建て、移転してからは歴代の王はこの月城で住むようになった。南側には南川が流れ、自然な防禦役割を果たしており、東・北・西側には敵の侵入を防ぐために幅広い濠を掘った。南門、北門、仁化門などと臨海殿に通じる臨海門があり、その他多くの付属施設があった
という。脱解王と言えば、午前中王陵を見に行ったやないか。我々が入ってきたのは臨海門やね。それと菜の花畑は濠やったんや。
食べ物屋が店を出して、そのゴミが芝生の上に置いてあるのが気になる。その向こうには一段高くなっているところがある。建物の基壇みたい。南側にも通路がある。ここでしばし寝転んだ。食べ物屋とは微妙な位置だが、綿菓子ではねえ。背後には石氷庫がある。この石氷庫は朝鮮時代の英祖14年(1738)に月城の中に作られた氷室である。石氷庫内の石室は長さ19m、幅6m、高さ5.45mで、長方形をなしている。約千個の石で作られており、虹の形をしている天井には三つの換気口があり、底には排水のための溝が作られている。現在の石氷庫の西側、約100mほど離れているところがもともとの場所ではないかという説もあるという。内部は照明があった。まだ18時まで時間があるから瞻星台に行ってみよう
起き上がって綿菓子屋のそばを通り抜けていて、アイスクリームのコーンを見つけたけど、もうええわ。
左(北)側から人が来たので、行ってみると城壁址だった。石もごろごろと崩れたままだ。内側よりも外側に高くなっている。当たり前やけど。北側では発掘調査が行われている。入る時は気づかなかったが、両端が盛り上がって、城壁があったのがよくわかった。北側はこんな風に切れて、南側はこんな風に切れている。新羅滅亡の時に破壊されたのだろうか、17:15。『慶州で2000年を歩く』によると、新羅の都は唐の制度が入ってくる前から都だったために、中国の影響をうける前の姿も残している。新羅は都を移したことがなく、唐の制度に従えば北につくらなければならない王宮が、都の南側の台地の上に残っているのはその例だ。
一応、都の北側にも王宮をつくったが(城東洞遺跡がそうだといわれる)、実際には月城をそのまま使いつづけていた。日本からの使節も月城にきたようだ
という。

※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)