お知らせ

やっとアナトリアの遺跡巡りを開始しました。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年1月31日月曜日

7-12 フォロ・ロマーノ、ティトゥスの凱旋門(Arco di Tito)

マクセンティウスのバシリカから再び㊺ウェスパシアヌスの市場と穀物倉庫へ。
正面にはパラティーノの丘の張り出し部のアーチ列が存在感を示す。そこに出入りできるのはカモメだけ。うるさいくらい鳴いている。
振り返るとマクセンティウスのバシリカは木に隠れている。やっぱりこのバシリカはパラティーノの丘からでないと全体が見られない。
ここまで来ればフォロ・ロマーノの見学はほぼ終わりなので、パラティーノの丘のアーチ列も見てみたい。

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しかし、柵だらけでウィア・ノーウァ(Via Nova)に繋がる道がわからない。歩いている人がいるのに。
こちらも柵。さすがに集中力に欠けてきた。もうええわ。
㊸ティトゥスの凱旋門(Arco di Tito)も門の中を通ることはできない。
『ROMA』は、81年に神格化された兄のティトゥス帝を讃え、ユダヤ人に対する勝利を記念して、ドミティアヌス帝が建てたものである。
アーチは、ペンテリカス山産出の大理石のアーチの唯一のもので、横に4本の半柱が並んでいる。2つの勝利の瞬間を示す内部のレリーフの価値は高いという。
フォロ・ロマーノの西の端にあるセプティミウス・セウェルスの凱旋門(203年)やコンスタンティヌスの凱旋門(315年)と比べると、外側に浮彫がほとんどないので、すっきりとした外観となっている。 
南のレリーフには凱旋門をくぐろうとしている行列が描かれ、右側に7肢の燭台を持つ人々が見えるという。
メノーラを担ぐ内の2人の頭部が欠けているが、前方の浅く表された人々、後方の高浮彫で表された人々と、表現にメリハリがある。
北のレリーフには、女神ローマが導く4頭立て2輪馬車に乗ったティトゥス帝が、リークトル(警士)たちを前に、ローマの民衆と元老院を人格化したものを従えているという。
ティトゥス帝の後ろにいる有翼の女神がローマ。4頭の馬がそれぞれ別の動きに表現されて、勝利の勢いが感じられる。
外側の簡素さに比べ、装飾的な格天井だ。格間の1つ1つに花が高浮彫されている。
ヴォールトの中心には、ティトゥス帝の神格化された像が描かれているという。
このワシを鷲掴みしているのがティトゥス帝。ワシに乗って天空を飛んでいることが神格化を示すのだろうか。
その周辺も葉綱飾りや卵鏃文様などがぎっしりと浮彫されている。
午前中に通った時はこの門が閉まっていて、右側から出たのだった。
ウェヌスとローマの神殿(Tempio di Venere e Roma)は通り過ぎて離れてからでないと見えない。
マクセンティウス帝のバシリカの東側にはサンタ・フランチェスカ・ロマーナ教会Chiesa di Santa Francesca Romanaがある。この教会の一部はローマとウェヌス(ヴィーナス)の神殿跡に建設されており、コロッセオの方向には昔の神殿の名残が見られる。基壇の大きさは145mX100mで、クイリナーレの丘にあったイシスの神殿と並んで、ローマ最大の神殿である。ハドリアヌス帝がネロ帝のドームス・アウレアの廃墟の跡に135年に建てた。神殿の周りには10本X2、20本の柱からなる広いペリスタシスがあり、後ろで壁を合わせる形で2つの対照的な豪華な部屋があった。307年のマクセンティウス帝の修復にさかのぼるアプシスの豪華な構造が2つの部屋の特徴となっているという。
昔の神殿の名残というのが半円ドームの斜め格子の格間だろう。
ティトゥスの凱旋門とほぼ同じレベルに築かれているので、こちら側から見るこの神殿の基壇はかなり高くなっている。
フォロ・ロマーノの見学が終了したのが3時半、入場が2時前なので1時間半かかったが、予定よりも早くなってきた。

※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)

2011年1月30日日曜日

7-11 フォロ・ロマーノ、マクセンティウスのバシリカ(Basilica di Massenzio)

マクセンティウスのバシリカは、フォリ・インペリアーリ通(Via Fori Imperiali)から外側が見えた。
また、パラティーノの丘からは全体が見えた。というよりも、マクセンティウスのバシリカの全体を眺めようと思ったら、パラティーノの丘からしかないのだ。
『ROMA』は、このバシリカはローマでも屈指の壮大な建物のひとつで、306年にマクセンティウス帝が建て始め、312年にコンスタンティヌス帝が完成したという。
マクセンティウスとコンスタンティヌスのバシリカとも呼ばれているが、長いのでマクセンティウスのバシリカとした。
中央のヴォールトだけ半ドームとつながり、両側のヴォールトは窓のある平壁があるだけだ。
もともとの入り口は東側にあって、その前にはナルテックス(拝廊)があった。入り口は続いて南側に移され、建物の方向が変わった。次にアプシスにはコンスタンティヌス帝の巨像が置かれ、空間の容積も大きくなった。バシリカは8本の柱で3廊に分割されており、身廊にあたるところに、14m以上のシポリン(雲母大理石)の縦溝のはいった円柱が8本横に並んでいて、35mもあった3面にわかれた交差ヴォールトを支えていたという。
フォリ・インペリアーリ通から見ると後陣(アプシス)は通りの方に出っ張っていた、つまり、パラティーノの丘から見て中央の部分が後陣だと思っていたのに、この図では西側がアプシスになっている。
アプシスへと続く幅35mもある身廊の天井が交差ヴォールトで、しかもそれぞれの曲面は八角形の格天井だ。
シポリンの円柱、あるいは柱頭の残骸は3箇所に残っている(白矢印)。
また、マクセンティウスのバシリカの前の別の遺構と思っていたもの(黒矢印)は、コンスタンティヌス帝の巨像が置かれた身廊を挟んで、現存する建物と左右対称に造られた建物の一部だったのだろう。
北にある小廊は、中央の身廊とは直角に交わる位置にあり、9世紀のバシリカを破壊した地震にも耐えたもので、24mの高さにある半円ヴォールトの格天井も残っている。身廊に対してはヴォールトは扶け(たすけ)壁の役目も果たしていたという。
現在残っているこの巨大な建物が「小廊」とは。
右のヴォールト天井には八角形の格間が12個ずつ5列並び、4つの八角形が囲む隙間には小さな四角形の格間が造られている。これもローマン・コンクリートだろう。
壁面には3つのアーチ形の開口部がある。
採光は、バシリカの長辺部分とファサードの2層にわたってスパンごとにリフレンする、身廊の大きな窓や三連窓から光を取っていたという。
ここには格子状に仕切られたガラス窓があったようだ。下のアーチの両側は彫像でも置かれていたのか、縦の出っ張りがある。中央のアーチには奥まった壁龕がある。
そして前の方に置かれているものはヴォールト天井の巨大な破片だ。パンテオンのドームの整然と並ぶ軽やかな格天井と違い、このバシリカのヴォールト天井はレンガを重ねた重そうなものだった。
4世紀ともなると、質の良いローマン・コンクリートの原料が枯渇したのか、それともローマン・コンクリートによる軽い天井を造る技術が伝わらなくなっていたのか。
中央のヴォールト天井も同じ格天井だ。左右のヴォールトとの違いは、平たい奧壁にはなっておらず、曲面の壁龕となっていることだ。フォリ・インペリアーリ通から見たように教会の後陣状のものがこの中央の間の壁龕に当たる。
ここは、入り口が南にあった時代の後陣だったのだろう。
しかし、ヴォールト天井から半ドームへの収斂がうまくいかず、そのために半ドームの頂点付近が剥がれ落ちてしまったのではないだろうか。
さっき見かけた天井のかけらが、その一部だったのだろう。
築造後約1700年たった現代では、アーチによる重量の分散やローマン・コンクリートによる軽量化では足りず、機械的に補強を行っている。
西側の交差ヴォールトも他と同じ格天井。木製の棒のようなものが付けられているが、何のためかわからない。
パンテオンと比べると、ドーム内側の直径が31mなので、身廊幅の35mよりも小さいが、高さは55mもあるのでこのバシリカよりもずっと高い。

※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)

2011年1月29日土曜日

7-10 フォロ・ロマーノ、ウェスパシアヌスの市場と穀物倉庫(MACELLUM ET HORREA VESPASINI)

東へ歩いて行くと、木が生えていたりして見通しがきかなくなってきた。パラティーノの丘もほとんど見えない。
ひょっとすると、これが㊶バッコスの聖所(Sacello di Bacco)?
反対側はアーチ列とその奥にも大きな建造物があるらしい。その天井は交差ヴォールトになっている。
これはマクセンティウスのバシリカの一部?
グーグルアースでもこのアーチ列は見える。何かの建物の拝廊だったのだろうか。

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少し進むと開けた場所に出て、パラティーノの丘の北側がよく見えた。丘が低くなるにつれて、アーチの重なりも低くなっていく。
『ローマ古代散歩』が、ティベリウス帝の父の家を含む複数の邸宅跡に、カリグラ、ネロ、ドミティアヌスの各帝がフォロに面した部分を拡張改造して、宮殿をつくり、さらにハドリアヌス帝が支えアーチをつくって新道(ウィア・ノーウァ、Via Nova)の上まで宮殿を迫り出させたものであることが判ったというところだが、やはり柵がある。
ほとんど建物の残っていないこの辺りは㊺ウェスパシアヌスの市場と穀物倉庫だった場所だろう。かなりの面積を草むらが占めている。
ネロはこのウェリア一帯に、64年の大火後、黄金宮殿(ドムス・アウレア)のためのロビーを建設し始めていた。その死後、ウェスパシアヌス帝がそこに穀物倉庫(ホレア)や鮮魚や青果の市(マケッルム)をつくっていたことが発掘により明らかになっているという。
振り返ると左にティベリウス宮殿、右奥に㉞ウェスタ神殿(AEDES VESTAE)が見えるので、ウェスタ神殿と柵の間は㉟ウェスタ巫女の家(Casa delle Vestali)、そしてウェスタ神殿の背後にはカンビトーリオの丘の市庁舎も見えている。
心持ち登り坂になってきた。
等間隔で仕切りの跡がある。きっとマーケットの店舗が並んでいたのだろう。そして仕切りの少ないところが穀物倉庫だったのだろう。

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左側の木の間に見えるのはマクセンティウスのバシリカかな。
いや、マクセンティウスのバシリカは向こうの高い建物だ。聖なる道(Via Sacra)に近い辺りには別の建物があったのだろう。
道が分かれていた。左側を登ると、やっとマクセンティウスのバシリカが見えてきた。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)

2011年1月28日金曜日

7-9 フォロ・ロマーノ、ウェスタ神殿と巫女たちの家(Casa delle Vestali)

㉘ディオスクーリ神殿の東に㉞ウェスタ神殿(AEDES VESTAE)がある。
遠くから眺めると3本の柱の背後に壁のある神殿の一部だろうと思ったが、近くで見ると円柱は他にも残っている。
『ローマ古代散歩』は、火の女神ウェスタは、2代目の王ヌマの時に公的な礼拝の対象となった。丸い建物の奥室には、ローマの建国者ロムルスの祖先にあたる、トロイアの落人アイアネスがもたらしたという、ローマの世界支配を約すパラス女神像が安置されていた。出火し易く、現遺構は191年の火災以後のものであるという。
グーグルアースで見ると、円形の神殿に柱廊がめぐっている。小さな神殿だ。

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ウェスタ神殿の北側には㊱レギア(REGIA)なるものがある。
旧式な切石整層積工法(オプス・クワドィラートゥム)による三角の建物跡がある。ここからはREX(主)と刻まれたブッケロ陶器(黒くて固いエトルリア特有の陶器)のかけらが出土し、前述のヌマ王が建てたというレギアと認定された(遺構は前1世紀に創建当初のままに再建されたもの)というが、まったく気づかずに通り過ぎてしまった。
向こう正面の㊳アントニヌスとファウスティーナの神殿(T.di Antonino e Faustina)は、今では教会らしい。フォロ・ロマーノの入口はこの神殿の西壁に沿った階段の上にある。やっとここで入口よりも東まで移動した。
『ROMA』は、アントニヌス・ピウス帝の妻ファウスティーナの死と神格化の141年に建てられ、皇帝の死後は彼にも捧げられた。この建物は6本柱式、前柱式で、近代的な階段からのぼっていく高い基壇の上に立っている。シポリオン(雲母縞大理石)の円柱は、17mの高さで、縦溝の部分には牛に引かせて柱を倒そうとした時に、縄が差し入れられた。イタリア半島式の神殿の部屋はペペリーノ石の直角積みで造られており、アントニヌス帝の時期に典型的な冷たい古典様式の洗練された大理石のフリーズで装飾がされていた他、もともと大理石で上張りがされていた。8世紀にはこの神殿はサン・ロレンツォ・イン・ミランダ教会に姿を変えたという。
『ローマ古代散歩』は、保存状態が良いのは教会堂に転用されたからという。
その右横の花壇下からは、㊴建国以前の墓地が見出されているというが、この日はシートで覆われていて見えなかった。

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レギアを過ぎて北の聖なる道(Via Sacra)と合流する。
パラティーノの丘はティベリウス宮殿のを支えるアーチが何層かに積み重なっている。
『ローマ古代散歩』は、崖下の道はネロの時代につくられた新道(ウィア・ノーウァ)といい、沿道には商店や住居跡が、さらに先には崖上の宮殿を支えるためのアーチが続いているという。そのアーチの重なりを間近で見たい。
手前には㉟ウェスタ巫女の家(Casa delle Vestali)がある。共和政以後は大神祇官(宗教主、ポンティフェクス・マクシムス)の保護下に30年間、聖火保管の他、浄祓や収穫祭などの国家儀式全般に奉仕したという。
巫女は単数形ではなく複数形なので、正しくはウェスタ巫女たちの家だ。
立入禁止ではなかったので、近づくとウェスタ巫女の家は工事中だった。ここからパラティーノの崖下に近づけそうにない。
こんもりした木々を過ぎると、ウェスタ巫女の家の北側には㊲ドムス・プブリカ(DOMUS PUBLICA、大神祇官公邸)が存在した。40歳前に大神祇官になったカエサルも暗殺当日までここに住んでいたという。
フォロ・ロマーノにはカエサルに関するものが多いことに驚かされる。
ドムス・プブリカは中央にレンガ積みの遺構がある。壁かと思ったらドアがついていた。瓦はカエサルの時代のものだろうか。
その先では発掘あるいは修復中になっていた。何の遺構かわからない。ドムス・プブリカの続きだろうか。
パラティーノの丘のカサマツの下の建物は、ネロの地下通路から出てきて、ティベリウス宮殿の方に行こうとして立入禁止になっていた場所だ。
そして目の前の低い遺構は、ひょっとすると㊶酒神バッコスの聖所(Sacello di Bacco)かな。
南ばかり見ていた。北側には㊵通称ロムルスの神殿(c.d.Tempio di Romolo)があった。現在はここも教会となっている。
ファサードの凹んだ円筒形の神殿がある。マクセンティウス帝の息子ロムルスの神殿と言われてきたが、ユピテル・スタトル(踏み止まらせるユピテル)神殿が再建されたものではないかという説が浮上している。当初のものは、サビニ人との戦いで劣勢になったローマ人が退散するのを押し止めるようロムルス(初代王)が大神ユピテルに祈り、それが叶ったという場所に前3世紀初頭、建てられたとされているという。
凹んだ円筒形のファサードというのがよくわからない。グーグルアースで見ると、両脇の円柱と、中央の扉で弧の軌跡を描いているようにも見える。
来し方を振り返る。雨は降ったり止んだりを繰り返している。
先にはまたしても巨大な建造物が。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)  

2011年1月27日木曜日

7-8 フォロ・ロマーノ、パラティーノとカンビトーリオの間の谷

バシリカ・ユリアと3本の円柱の残る㉘ディオスクーリ神殿(Tempio dei Dioscuri)との間にVICVS TVSCVS通がある。
㉘カストルとポルクスの神殿(T.dei Castori)またはディオスクーリ神殿
『ローマ古代散歩』は、2代目皇帝ティベリウスによって再建された。高い基壇の塊と3本のコリント柱が残っている という。
『ROMA』は、紀元前484年にディオスクーリ(ユピテルの双生児カストルとポッルクス)に捧げられたこの神殿は、紀元前117年(基壇が造られた時期)に修復された後、紀元6年(円柱が建てられた時期)にティベリウス帝によって修復された。神殿は、正面に8本の柱が並び、他の各辺に11本の柱が並ぶペリプテロス(周柱式)で、元老院の会議が開かれたり、計測事務所が置かれていた場所であったという。

フォロ・ロマーノでは前廊に円柱が並ぶ神殿跡を見てきたが、周柱式という様式の神殿もあったのだ。
フォリ・インペリアーリ(Fori Imperiali)のアウグストゥスのフォロ(Foro di Augusto)に残る神殿がやはり周柱式だ。
右に曲がってディオスクーリ神殿の基壇や右側のレンガ積みの遺構を交互に眺めながら歩いていると、右に扉を見つけた。左の石板にCLOACA MAXIMAとある。これがクロアカ・マクシマか。ここはバシリカ・ユリアの東端にあたるところだ。
『ローマ古代散歩』は、前6世紀初頭、初代ロムルスの後5代目からは、ギリシアの影響を受けた高度な文明をもつエトルリア系王の時代となる。彼らは凝灰岩ブロックをアーチ状に積んだ、天井の高い大下水道(クロアカ・マクシマ)をつくり、舗石を敷いて小川と不衛生な沼地を地下に封じこめた。それは今日もなお、大量の下水をテヴェレ川に押し流しているという。
ここから入った地下に残っているのだろう。
凝灰岩の切石整層積み(オプス・クワドゥラートゥム)によるアーチ天井をもつクロアカ・マクシマは、昔は見学できたようだ。
㉘ディオスクーリ神殿を振り返る。東側の柱廊のうち、3本の円柱だけが残っている。この通路も立入禁止。
ここから先、西斜面を修復中のパラティーノの丘と西側の高台の間にも遺構がある。

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これまで『ローマ古代散歩』のフォロ・ロマーノの平面図を参考に番号に合わせて見てきたが、この辺りは上のグーグルアースと平面図にずれがある。
ディオスクーリ神殿の南側に巨大な遺構があった。その背後はパラティーノの丘。ティベリウス宮殿の西側が修復中。
2つの遺構の間の通路は、サンタ・マリア・アンティクア教会(S.M.Antiqua)に行くためのものだった。教会は㉜ではなく、㉘のディオスクーリ神殿と通路を隔てた位置にある。
『ROMA』は、ヴィザンツ壁画をもつという。
平面は四角で、4方向に切り妻の屋根となっているのがグーグルアースでわかります。
その南側はアグリッパの穀物倉庫?
この先も立入禁止。ここを右に行くとトイレがあります。
しかし、これは㉛ドミティアヌス帝が奉じた図書館(ATHENAEUM、アウグストゥス神殿説もあり)だった。
あまりにもがらんとした壁体だけが残る遺構なので、穀物倉庫と勘違いしてしまった。
手前の赤いレンガに取り付けられた説明板はこの通りVICVS TVSCVSについてだった。
これが㉝アグリッパの穀物倉庫(Horrea Agrippiana)で、カンビトーリオの丘から見えるらしい。
アウグストゥスの有能な腹心で娘婿となったが惜しくも早死にしたアグリッパが建てたという。
ディオスクーリ神殿の先まで戻って右折。東廊に残る列柱を眺める。近くで見ると、円柱自体は長いと感じなかった。
神殿の東にサンタ・マリア・アンティクア教会があり(写真に少しだけ写っている)、柵にはサンタ・マリア・アンティクア・プロジェクトという説明板がかかっていた。
※参考文献
「ROMA ローマの昔の姿と今の姿を徹底的に比較する!」(2001年 Electa)
「ローマ古代散歩」(小森谷慶子・小森谷賢二 1998年 新潮社)