お知らせ

やっとアナトリアの遺跡巡りを開始しました。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年5月31日火曜日

15 第3様式の壁画

『ポンペイ今日と2000年前の姿』は、秘儀荘(Casa di Misteri)は、家の一階に描かれた壁画はすべて第2様式のものです。応接間の壁画だけは第3様式のもので、黒地にうっとりするようなエジプト風の細密画が描かれていますという。
『完全復元ポンペイ』は、執務室を飾る優雅な第3様式のフレスコ。エジプトのモチーフを用いている。これは祭壇にえがかれたアヌビス神という。
黒地が現在では紫に見える。これだけでは第2様式の人物を大きく描いたものとの様式の違いが見えない。
同書は、第3様式は「装飾的様式」(前25-後35)として知られ、ある程度第2様式を引きついでいるようだ。えがかれる建築物は第2様式とかわらないが、壁面をくぎる円柱が細くなり、彫刻をほどこした象牙の円柱を模している。建築のフォルムは写実性よりもかざりとしての美しさを優先してえがかれ、装飾の細密な描写やモノトーンを背景にした明るい色彩が際立っているという。

神官アマンドゥスの家の壁画 
ヘスペリスの園を訪れるヘラクレスをえがいた大きな絵が印象的であるという。
中央に部屋の額におさまったような絵画。その左右の赤い壁面は凝視しないとわからないくらいに細い柱が表され、柱をはさんで人物像と有翼の小像が描かれている。柱の途中に棚のようなものがある。
マルクス・ルクレティウス・フロントの家
アウグストゥス帝時代に全面改装され、62年の地震後には、簡単な修繕や絵の修復をふくむ復旧工事が行われた。
アトリウムの壁面は、第3様式のフレスコ画で装飾され、白い縁取りのある黒いパネルの中央には、狩りの場面や、白鳥やグリュプスをはじめとする動物の小型絵画があしらわれている。
溶岩セメントの床には大理石のはめ石がちりばめられ、幾何学的な形の小さな色大理石の板を並べて描いた模様と、5個の白いはめ石からなる円花模様とを交互にあしらったデザインになっていた。
アトリウムの中央には、縁の形を切りそろえた大理石の雨水だめがあり、縁は両端を結んだ組紐模様の白黒モザイクでかざられているという。
北が下になった平面図
A玄関ホール Bアトリウム C雨水だめ I執務室
執務室の装飾も第3様式だが、そのフレスコ画はどの部屋よりも質が高い。両わきには、精巧な枝つき燭台にかけたピナケス(海辺の神殿やヴィラをえがいた絵)があしらわれているという。
I執務室南壁
正確な透視図法が用いられているが、えがかれた建築物には幻想的な第4様式に近い特徴もみられる。しきられた壁面のうち、左右には、枝つき燭台と海辺の別荘を描いた小型絵画があしらわれ、中央には、ウェヌスとマルスの神話がえがかれているという。
その上部には、赤い壁面から左右対称に、細い柱や建物の平面が描かれている。
執務室南壁の右手のパネル 枝つき燭台にかけられた小型絵画
海辺に並ぶ別荘がえがかれ、手前には漁船とその乗組員がみえるという。
執務室の北壁左手のパネル
庭を三方から取り囲む重層構造の郊外型別荘がえがかれている。壁に風景をえがいておくと窓があるようにみえるため、壁画の題材として人気が高かったという。
第2様式には大きな建物が描かれ、その向こうに見える建物もまた大きかったが、第3様式では、こんなにか細く、また小さな建物になってしまった。
「窓があるように見える」というのは、当時窓のある家があって、そんな家へのあこがれがこのような小さな画面の風景画を誕生させたのだろう。
では、その窓にはガラスがあったのだろうか?
『ガラスの考古学』は、宙吹きガラスの技法が確立されると、ガラス容器の大量生産が可能となり、 ・・略・・ 窓ガラスまでも製作されるようになったという。 
逆にこのような小さな画面の風景画の大きさから、当時の窓の大きさ、そして窓ガラスの大きさの限界などがわかるのでは。

※参考文献
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)

「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」(谷一尚 1999年 同成社)

2011年5月24日火曜日

14 庭園画は第3、第4様式

古代ローマでは、壁面装飾として第2様式以降は建物を描いくことが多いが、中には美しい庭園を描いたものもある。
それを実際に見たのはMIHO MUSEUMのギリシア・ローマ美術の展示室だったが、ポンペイの出土品だと思い込んでいた。
同館図録は、ローマ共和制期後半からローマ帝政期前半の壁画のなかで、われわれの目を楽しませてくれる最高のものは、いわゆる庭園画である。これはいわゆる第3、第4様式の壁画で前1世紀末から後1世紀末にかけて最盛期を迎えたという。

庭園図(フレスコ) ローマ 1世紀 縦162.9㎝横114.9㎝(の部分) MIHO MUSEUM蔵
この壁画はヴェスヴィオ山の周辺のカンパニア地方の代表的な工房で制作されたと思われる。赤褐色、白色、黄金色の装飾帯で縁どりされ、風景は遠近法を用いて描かれているので、これらは「窓から見た花が咲き乱れる庭」を表しているといえよう。この種の壁画は、野外庭園の列柱式建物の背面の壁に描かれることが多かったが、本物そっくりに描かれているので、その田園風景が家の向こうにまで延々と続いているような錯覚を与えるのである。
壁画の図像や装飾細部をみると、ポンペイの壁画と共通点が多いことがわかるという。
上の窓枠は中央から両方向へやや下がり気味で、中央から紐で小さな額縁のようなものを提げ、その両端からリボンで結ばれた葉綱が出ている。その紐と水盤の脚を中心線として、一見左右対称風に描かれている。
しかし、左右の3対の小鳥はどれも異なった姿勢をとり、水盤の上には右側に1羽だけ留まっているし、水盤を支える有翼の動物も正面を向いていないなど、左右対称に見せてはいるが、それを少しずつ破っている。
狭い庭を広くみせるために、背面の壁に庭園画を描かれたというが、最初の庭園画は地下室に描かれた。

リウィアの別荘の庭園画南壁 ローマ、プリマ・ポルタ出土 前1世紀末頃-1世紀前半 全体358X590㎝(の部分)
『光は東方より』は、大理石製柵の中央の四角い窪みの遠近法的表現や、林苑の彼方の青空と溶けこむあたりの彩色による空気遠近法など、イリュージョニスティックな空間表現が見られるのに、全体の印象は奇妙にも遠近感を欠いていて二次元的である。写実的でいて何かしら非現実的な不思議な庭園。アウグストゥス時代の「ローマの平和(パクス・ロマーナ)」を象徴するような常春の楽園の雰囲気が溢れている。
庭園画がローマ壁画において一つの独立したジャンルを確立するのは紀元前1世紀末頃、時あたかもリウィアの夫オクタウィアヌスが共和政末期の内乱を平定し、アウグストゥスと改名して帝政を布こうという時期に当たっている。このリウィアの別荘の壁画はこの時期に制作されたと推定されており、庭園画はその後ポンペイ第4様式の終わりまで流行するという。
庭園画はリウィアの別荘から始まったのか。
趣向を凝らした建物のイリュージョンよりも、自然の風景の方が気分が落ち着いたのではないだろうか。
同北壁 全体358X590㎝(の部分)
同書は、よく眼を凝らすと壁面上方に蔓とも岩屋根の稜線ともとれる不規則な縁取りが青空を限っているのに気づくから、室内は洞窟(グロッタ)もしくは草葺き屋根の四阿として想定されているらしい。ここは冷んやりとした洞窟の中で、そこから見とおした庭園風景が広がっているという設定らしい。
共和政末期から帝政初期にかけてローマには真の私的庭園文化が築かれていたといえる。つまるところ、平和と富を得た人々が「閑暇(オティウム)」を娯しむ習慣を持ち始めたのである。庭園画とはそうした庭園の代わり、もしくは補足、室内の閉ざされた空間に現出された虚構の自然であるという。
上端のギザギザした部分は、壁画が剥落しているのかと思って気にも留めなかったが、洞窟の上部が描かれていたとは。
別荘の西側部分に位置する地下の矩形の部屋(11.7X5.9m)に、精妙な変奏曲を奏でながらほぼ同一の主題が四周の壁をぐるりと取り囲むように描かれているという。
当時地下室というものがあったのだろうか。少なくともポンペイの邸宅にはなかったように思う。また、パラティーノの丘のリウィアの家にもなさそうだ。リウィアの別荘には地下室が洞窟内部という設定で造られたわけで、趣向を凝らしたものだったにしても、やや不気味だ。
最初期の庭園画が描かれたのが地下室だったとは。
庭園画は寝室にも描かれた。

エジプト趣味の庭園 ポンペイ、果樹園の家 クビクルム(寝室)8 東壁の壁画 40-50年頃 幅225㎝高さ342㎝(コーニスまで) 第3様式
同書は、壁面を白のパゴラ(蔓棚)によって3分割し、腰羽目の上に葦で編んだ垣を表している。リウィアの別荘の庭園画に比べると第3様式の装飾法(壁面三分割法)にいっそう忠実であり、図式化が進み、現実からの乖離が顕著である。灌木の間に見えるファラオの彫像や壁面上部に配されたエジプト主題の額画など、エジプト趣味が目立っている。アクティウムの開戦(前31年)でアウグストゥスがアントニウス、クレオパトラ連合軍を破って以来エジプトの文物がローマに流入してエジプト趣味が流行したその反映であるという。
ファラオの彫像は、台座の上に左足を出した状態で、左壁面の樹木の幹あたりの位置に白っぽく描かれている。そして、右の白い柱の後方と、右壁面の赤い実のなる樹木の幹の前にもエジプトの神々の彫像が置かれている。
また、棚の上の2つの壁画には、ファラオが神に供物を捧げる場面が表されていて、古代エジプトの壁画や浮彫を額に入れて庭に飾っているようだ。エジプト趣味とはそういうものだったのか。
クビクルム12 果樹園の家
この邸宅には数多くの寝室があったらしく、12番目の寝室には今では黒い背景に樹木が描かれている。

蛇のからまる無花果の木の下には、上部とは無関係の編み垣(葦)で囲まれた庭園が広がり、非現実的効果を高めているという。
クビクルム8の垣は下部全面に平面的に描かれているが、12の方にはその上に水盤が置かれたり、垣より高い樹木が見えたりしている。
意外に庭の壁面の庭園画の例がない。悲劇詩人の家(Casa del Poeta Tragico)のペリスティリウム奥に小さな庭があってその背後の壁に庭園画が描かれていりる。赤い柱が何本かわかる程度だが、そこに庭園画が描かれていたのかも。

泉水のある庭園 オプロンティス、ポッパエア荘 内庭87 東壁と北壁の壁画 1世紀後半 第4様式
第4様式になると、モティーフが増し、いっそう複雑で凝った設定のものになっていく。実際の庭園の中に一連の部屋が設けられ、これらの部屋の間にさらに一連の露天の小さな庭園が挿入されているのだが、これらの小庭園を取り巻く壁に庭園画が描かれていた。窓から見とおした庭園風景という設定だが、現実にもこれらの部屋には広い窓が開けられ、現実の庭園はいうまでもなく、描かれた庭園がどこからでも眺められるように周到に設計されていた。現実と虚構との間の妙なる交感、あるいは巧妙な目騙し(トロンプ・ルイユ)という。
ここまで来ると、小さな庭を大きく見せるなどというものではなくなっている。よほど広い庭園がだったのだろう。
樹木が上下に描かれているのは、黄色い地面に間隔をあけて木が植えられて、その前には必ず水盤が配置されている。実際の庭園もこのようになっていたのだろう。果樹園の家のクビクルム12の庭園画のように、第3様式の垣の部分が発展したような印象を受ける。
地下室を洞窟に見立て、洞窟から眺めた景色を表すことで始まった庭園画は、庭園の中にこのような庭園が描かれた部屋があり、その中も庭園になっているという、凝りに凝ったものも現れた。
しかしながら、樹木と水盤というまとまりがもっと小さくなって今の時代の壁面装飾にされたなら、「壁紙」の一種になるのでは。

※参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)

「NHK名画への旅2 光は東方より 古代Ⅱ・中世Ⅰ」(監修木村重信他 1994年 講談社)
「ポンペイの遺産 2000年前のローマ人の暮らし」(青柳正規監修 1999年 小学館)

2011年5月17日火曜日

13 第2様式にイリュージョン

秘儀荘の壁画はほとんどが第2様式で描かれていた。第1様式かと思うような幾何学的なものがあったが、ポンペイの他の邸宅跡でも第1様式のような第2様式の壁画が残っている。

トレビウス・バレンスの家夏の食堂
『ポンペイ今日と2000年前の姿』は、庭の奥の壁に描かれた珍しいチェスの市松模様は、アトリウムから見ると実に写実的です。第2様式で描かれているのは一部屋だけで、他はだいたい第3様式で描かれています。庭には円柱で支えられたつるだながある夏期用の食堂がありましたという。
クリーム色の地よりも、彩色された部分の方が面積が狭いせいか、目にうるさくない。一つの色が斜めに上へと向かっていく。
第2様式では隅の柱も描かれるのに、この部屋では実物の円柱が造られている。その上を見ても支えるものもなく、ただの飾りとしてつくられたのだろう。
庭に円柱が支える蔓棚があるのは夏の食堂だったのか。モザイクの円柱も庭の池の蔓棚だったらしいので、やっぱり夏用の食堂のあった場所だろう。モザイクの円柱はこちら
『光は東方より』は、前1世紀の初期に現実を錯覚させるようなイリュージョンの技法が壁面装飾に導入され、第2様式が誕生したという。

グリフィンの家 部屋Ⅳの壁画 前100-85年頃 ローマ、パラティーノの丘 第2様式初期
第1様式の壁面装飾に欄干そして柱を付け加えた折衷様式で表現されるという。

パラティーノの丘のグリフィンの家というのは、ドムス・アウグスターナ(皇帝宮殿の私邸部分)の中央アーチ門に架けられていた鳥グリフィンの高浮彫が発見された家のことだろうか?
欄干の上の広い面積を占める壁面の、円柱で区切られた部分には、中央に幾何学的な装飾がある。菱形を色を変えて並べると目に錯覚を起こさせる効果があって、十分にイリュージョンだ。
その両側の赤い帯と円柱に挟まれた部分は複雑な模様の大理石の板を表していて、秘儀荘の6の部屋の天井近くにも見られる。欄干の上から天井を支える円柱には縦溝と柱頭が立体的に表されている。
ここに見られる建築的要素は、約4半世紀後のオプロンティスのポッパエア荘の壁面装飾により、発展させられるという。

ポッパエア荘 クビクルム23の壁画 前50-40年頃 オプロンティス 発展した第2様式
腰羽目から上の壁が取り払われ、遠近法を巧みに用いた堂々たる楼門のイリュージョンが描き出される。さらにその背後には多くの柱に支えられる建築が後方に広がる。したがって第2様式が建築的様式とも呼ばれる別名を持つ所以となっているという。
左壁の楼門の背後には手すり付きの階段が見える。各壁に別々の建物が立体的に描かれていて、全体でどこかの建物を表そうとしたのではないようだ。
各壁面の正面に向いて、それぞれの架空の建物や空間を楽しんだのだろうか。
ヴィラ・ファルネジーナ地下の家 クビクルムBの壁画 前20年頃 ローマ、トランステヴェレ 第2様式後期
大胆な建築モティーフを使ったイリュージョンは影をひそめ、代わって従来の垂直方向への区分がなされ、中央部の重要性が増す。ここに神話に題材を取った風景画などが、あたかも開いた窓から見える屋外の風景のようにはめ込まれ、またその効果を期するために、周囲に単色で閉ざされた壁画が描かれるという。
こちらの方は、室内の作り付けの立体的な壁面のようだ。実際に額を壁に飾ったり、小人物像を上の棚に置いてみたりしたように描かれている。
中央の風景画だけが外界の見える窓のようだ。
秘儀荘 ある部屋の壁 
『完全復元ポンペイ』は、素朴な「だまし絵」技法で建築物をえがいた第2様式の壁面装飾。秘儀荘の部屋を飾っていた。左右には壁端柱(アンタ)、高い基壇とその上に立つ2本の円柱、半円形のアーチがえがかれているという。
この壁面は、第2様式のなかで、初期・発展期・後期のどれに属するのだろう。風景画はないが、後期のような印象を受ける。
上部の半円アーチは、パラティーノの丘の皇帝観覧席の裏側パンテオンのドーム天井のように刳りのある格天井のヴォールトとして描かれているので、格天井が紀元前にすでにあったことがわかる。
秘儀荘 アトリウムから北側のポルティコへと向かう廊下沿いの休憩室 
同書は、コリント式の居間に似た第2様式の見事な装飾がほどこされているという。
左壁上方に建物が見えるので第2様式でも発展期のものだろう。
※参考文献
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)

「NHK名画への旅2 光は東方より 古代Ⅱ・中世Ⅰ」(監修木村重信他 1994年 講談社)

2011年5月10日火曜日

12 秘儀荘4隣の部屋にもポンペイの赤

秘儀荘というのは、ディオニュソスの秘儀を描いたのだろうと言われている壁画が一面に描かれた6の部屋から命名された。
左隣の5の部屋にも壁画があった。パネルとしては小さいが、ここにもポンペイの赤を背景に人物像が描かれている。
奥の部屋Cはアトリウムから南壁が見えた部屋だ。ここからは緑の東壁が見えている。
人物像のパネルの上に壁面を真似て数段が表され、その上が開いていて、東面と南面には他の部屋の上部が見えるように、明るい色彩で描かれている。そして角には角柱。6の部屋よりも進んだ第2様式のように思う。
上の2面のある場所は低いヴォールト天井になっている。そのこちら側は天井が高く、上の方にも壁画があったようだ。
その下には赤というよりも赤紫のパネルが並んでいて、その上には壁面を真似たような絵がある。この部分は、奥の2面よりも前に描かれた第2様式ではないだろうか。
一番手前には6の部屋と繋がった開口部がある。
部屋の北東隅は壁が出っ張っている。壁画は右奥と同じ頃に描かれたものだろう。手前には7の部屋と続く開口部。
だいぶいたんでいるが、ポンペイの赤を背景とした、南東隅と同じ頃に描かれた壁画だ。しかし、上の方に描かれたものは少々異なっている。緑色の3段の壁面のようなものが両側に描かれ、それを中央で立体的に切り開き、2人の人物が描かれている。
床面には三角と四角を斜めに配置したような舗床モザイク。土埃をかぶっているが、赤・黄・緑・黒など、本来は鮮やかな色彩だったらしいことが伺える。
これで見学は終わり、一度外に出て西北の柱廊へ。途中で見かけた部屋にも第2様式の壁画が残っていた。これもポンペイの赤かな。中央のパネルに小さく何かが描かれているようだ。
そのまま北の逆L字形の柱廊を見ながら、CDから建物に沿ったテラスを通って、平面図に現在の入口とされているところから秘儀荘の外に出た。
外から見た秘儀荘。中央の奥まった7の部屋の出入口にはロープが張られている。両側の出張った柱廊間を移動するのに外に出たが、その部分は元々屋根のある居間だった。
復元図では、居間は西側に後陣のような出っ張りのある部屋だったようだ。現在でもその基礎の部分は残っている。
西側には見学した階の下にアーチ列がある。『完全復元ポンペイ』は、建物の前半分は、傾斜地を平らにするために築かれた四角形の人工堤の上に建っているという。
地下にも部屋があったということではないらしい。
これで2時間のポンペイ遺跡の見学は終了。部屋の中まで入って細部を見ようと思ったら、やっぱり一日がかりになるだろう。


※参考文献
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)

2011年5月3日火曜日

11 秘儀荘3ポンペイの赤

8アトリウムから狭い通路を抜けて柱廊へ。右側の開口部から水の溜まっている外に出たのだが、当時でいうと邸宅の居間に入ったことになる。
そしてもう一つの柱廊へ入っていく。先ほどの柱廊とおなじ舗床モザイクがあった。
入ったのは6の部屋。
足元は柱廊の小さな石を組み合わせたモザイクから、白石と黒石の斜めに置かれた石畳文様になった。
部屋には三方の壁の前にガラスの結界があるので、間近で見られるのではと思ったが、入口から眺めるにとどまった。
部屋の中は、日本では一般的なタイルのはり方だ。目地があって同じ形のものが等間隔に並んでいる。そんな風に見えるが、黒い線は目地ではなく、黒石を細く成形して白石の輪郭に並べたものだ。
こういうのもオプス・セクティレだろうか。
さっき市場で壁画を見た時、今は色が褪せてパステルカラーのようになっていますが、元はもっと鮮やかな色だったと言いましたよね。その当時の色が残っているのがこの部屋ですという。
これが「ポンペイの赤」だ。ポンペイ展は各地で何度も開催されていて、10年ほど前に大阪で開催された時にこの複製を見たことがある。今回実物を見て、その時に見た記憶よりも小さいなと感じた。
あまりにも赤の印象が強いので、天井の高い大広間の壁一面を飾っていたと思い込んでいたのだろう。
北壁。左端に出入口があり、横向きの婦人から絵は始まる。
ディオニュソスの秘儀の場面が描かれていますというが、部屋の奥にまで差してきた西日が壁画を照らして見にくい。
東壁へつづく。こんな風に(左下)直射日光が当たっても褪色しないらしい。
人物像の上には天井の際には、アトリウムにもあった卍繋ぎ文が巡っているが、より精密に、立体的に表されている。そのうえには複雑な大理石の板に似せて描かれている。
これで東壁が終わり南壁に続くが、続きの場面はピントがあっていなかった。
南壁の中央に窓があり、右隅から西壁にかけて場面は続いている。この図が一番色があせている。
『ポンペイ今日と2000年前の姿』は、高さ3m、長さ17mの装飾帯というので、それほど広い部屋ではない。21㎡くらいだろうか。部屋全面に大きく人物を表しているが、これも第2様式だ。
『完全復元ポンペイ』は、1882年、アウグスト・マウは『ポンペイにおける装飾壁画の歴史』のなかで、ポンペイの壁画を分類するという史上初の試みをなしとげた。地道な調査にもとづく研究の結果、79年までにえがかれたローマのフレスコ壁画を識別し、4つの装飾系統に分類したのである。
第2様式は、「(遠近法的)建築様式」とよばれ、スタッコの浮き彫りではなく平面に絵をえがき、遠近法を用いて奥行き感を出すところに特徴がある。通常は、手前の方に高い基壇、その上に壁面の中央をくぎる2本か4本の円柱、アーキトレーヴ、アーチ、格天井がえがかれたという。
この赤い部屋には所々黒い仕切りのようなものがあるが、円柱を表したものでもない。ちょっと不思議な第2様式に思われる。

※参考文献
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)

「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)