お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2008年6月11日水曜日

3日目-8 茸長寺址三層石塔、そして石仏坐像へ

 
我々は頭の中が「?」でいっぱいのまま、統一殿へと下る広い道から分かれて、赤服の後ろをついて茸長寺址へと向かった。 

最初は狭いが平らな道だった。突然急な下りとなった。若くて足の達者な赤服はどんどん下りていって、山屋なのに下りに弱い我々はぐんぐん離されていく。一時は姿を見失った赤服が道標の前に立っていた。前方に茸長寺址三層石塔、左に茸長寺谷石仏坐像と磨崖如来坐像とあるが、岩しかないやん。岩の右側から回り込んで山を下ると三層石塔が見えてきた。塔が見えるところまで来た、10:47。こんな崖の上によく造ったものだ。
説明板は、茸長寺の三重石塔は金堂跡より高いところに立っている。この塔は自然の岩盤を整えて、下基壇にし、その上に層ごとに塔身石一つに屋蓋石を一つずつ積み上げた。塔の上部は破損され、現在塔の高さは4.5mしかないが、天にとどくように高く見えて、自然とのよい調和をなしている。
製作時期は統一新羅時代と推定される。また、眺めのよい山の峰に建った塔は珍しく、新羅時代にまれにみられ、新羅の後期を代表できるもの
という。
おっちゃんは素早く塔まで下りていって写真を撮っていたが、まずビデオから撮り始めた私が下りようとすると、赤服は上に登りはじめた。後をついて行くしかない。まっええか、戻る時にまた来よう。伽藍よりも高い所に三層石塔があったとはいえ、山の斜面に造ったとはいえ、こんなロープが要るような急な斜面があるとは思わなかった。しかもこれが2つ目のロープだった。ロープに結び目のコブコブがあるおかげで手が滑らずに済んだが、斜度よりも、岩の上の砂で足が滑る。これはもう本格的な登山コースだ。石仏・石塔巡りどころではない。
赤服の姿はもうない。どこまで下りたら石仏があるんや。広い道まで戻ってさらに七仏庵まで行く予定なので、時間も気になる。おー、これが茸長寺の石仏坐像か、10:53。しかしなんという台座や。もともとこんなに何層もあったとは思えない。金堂がここにあったとしてもそんなに大きな建物ではなかっただろう。円形の台座の上に1体の仏像が置かれていたとしてあと5~6体の仏像があったことになる。
説明板は、茸長寺は新羅時代の瑜伽宗の太賢が住持を努め、朝鮮時代生六臣の一人である梅月堂金時習が隠居しながら『金鰲新話』を執筆したところで有名な寺院である。
この仏像は茸長寺跡にある弥勒丈六像と推定される石仏坐像で、彫刻の様式から見て8世紀中頃のものと推定される
という。この坐像も首がない。そして、袈裟を着ている。仏像ではなく高僧の像だったのか。
山側もこんな大岩が迫っているので、たいした建物は建てられなかっただろう。赤服の背後に磨崖如来坐像がある。説明板は、磨崖仏は三輪大坐仏の後側の岩壁に浮き彫りが施され、高さは1.62mである。仏像の右側の岩には銘文が残っている。全体的な彫刻手法から8世紀後半の作品であると推定されるという。見上げると三層石塔があった。赤服は薬水谷まで戻って下山するよりも、ここまで下ったのだから、そのまま下山するだろう。荷物は何も持っていないので、ミネラルウオーターをここまで連れてきてもらったお礼に渡した。

赤服と出会わなかったら、茸長里 Yongjang Village 2450mという道標から下ったとしても、あまりにもきつい下りなので、きっと間違えたと思って引き返していただろう。
え、あの分岐から三層石塔まで11分、三輪大坐仏まで17分で来たんや。三層石塔まで30分は下ったとばかり思っていたのに。