標高2600mのテンドリク峠で写真休憩。グーグルアースで見ると、D976号線は思ったよりもイランとの国境近くを通っている。
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アララト山は標高5137m、はっきりと姿を現しているが、左の方は雲がかかっている。
雲の間から少し小アララト山も見えています。これから雲が切れてくるかも知れません
日本の山は朝晴れていても、段々とガスが上がってきて、午後からは雲がかかってしまうことが多い。アララト山も小アララト山のように雲に隠れてしまうのでは。
テンドリク峠も花がたくさん咲いていた。花の写真はこちら
再びバスで移動。峠からはゆるやかな下りが続く。カーブの度に眺める窓を替えながら、少しずつ姿を隠すアララト山を追っていたが、ついに低い山並みの向こうに隠れてしまった。
動いているので写真には撮せなかったが、とりどりの花の色が車窓に現れては消えていった。
岩と土の層が交互に重なった山肌が見える。集落には木々が生えているが、山には木はない。
そのうちに稜線がギザギザの山に近づき、家並みが現れた。
そして商店が並ぶドーバヤズィットの町へと入っていった。
標高1700mのこの町の名の由来はなんだろう。ティムールに捕らえられている間に死んだオスマン帝国第4代皇帝バヤズィットだろうか。
ドーウシュ・レストラン Doĝuş Restourantに早々と到着。3階のテラスで昼食。
左上:パン、アイラン、スープ、サラダ。
右上がメイン:トマト以外はユフカで隠してある。冷めないように?
左下:鶏肉のケバブと、松の実の入ったサーデ・ピラウ Sade Pilavが現れた。
右下:デザートはライス・プディング、フルン・スュトラッチ Firin Sütlaç
写していないが、多分スイカも出てきた。
自分を写真に撮ってくれという若者の写真。
食後コロンヤを持って回ってきた。
コロンヤ!『トルコで私も考えた』で知ってはいたが、お目に掛かったことがなかった。たぶん仏語のオー・ドゥ・コローニュ(日本ではオーデコロン)からとった名称だろう。
食前に使うものかと思っていたが、食後料理で汚れた手を浄めるのにも使うのか。
喜んで手を出すと、たくさん掛けてくれ、身振りでどのように使うのか教えてくれた。
まず両手をこすり合わせる。次にその手で首につける
ひえ~!手はどうもなかったが、首につけたらものすごい刺激だった。
そして顔につける
もうその手には乗らない。そうやってコロンヤの使い方を教えてくれたのは黒いシャツの方だった。
食事をしている内にアララト山の稜線にかかっていた雲はなくなり、小アララト山も見えるようになっていた。
右に目を移すとこのギザギザの山。その中腹に、これから見学するイサク・パシャ宮殿があるらしい(右手前の建物に隠れて見えない)。
イサク・パシャ宮殿までの斜面には様々な時代の遺構が残っていた。
右に左に曲がりながら高度を増していくバスの窓から、そのようなものを写すのは至難の業だ。あせっている内にもう宮殿が見えてきた。
宮殿の上の方にはモスクがある。その背後には城壁らしきものが。
『トルコの東トルコの西』は、イスハク・パシャ宮殿に行く。宮殿のすぐ上の方に、崩れた城塞が残っているが、起源はウラルトゥ王国にまで遡り、ウラルトゥの碑文があるとのことであるという。
ウラルトゥ時代の遺跡が残っているというのはこれだったのか。
『トルコ・イスラム建築』は、イスハク・パシャの時代の1784年に完成した宮殿は、現在のドウバヤズィットの町から6㎞ほど南東の険しい岩山の中腹にある。この辺りは、古代から城壁があったらしいという。
古くから自然の要害の地として、この場所が選ばれてきたというのは、山容からも納得できる。
イサクパシャもこの場所を邸宅に選んだが、それは、好奇の目や都市の喧噪(そして、それに付随する疫病)を遠ざけて、支配者のプライヴァシーを守った(『世界美術大全集東洋編17イスラーム』より)かららしい。
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※参考文献
「トルコで私も考えた1~4」高橋由佳利 集英社
「トルコ・イスラム建築」飯島英夫 2010年 冨山書房インターナショナル
「世界美術大全集東洋編17 イスラーム」1999年 小学館