ポンペイに着いて最初に見えたものは、下にアーチ、上に四角い窓の並んだこの建物の遺構だった。
おそらく11:バシリカだろう。
というのも、イタリア語のオーディオガイド用の地図で、この入場口の北側にあるのがバシリカだからだ。
入場口から遺跡まではまだまだ歩いた。黄色くなった木々に混じって、ポンペイにもカサマツがある。
ポンペイ遺跡には門が幾つかあるが、我々がポンペイに足を踏み入れたのは門からではなく、上図では25、下図ではE:劇場広場(剣闘士の営舎)だった。
そこには列柱廊に囲まれた広場があった。列柱廊の奥には剣闘士の営舎が並んでいたという。
我々が説明を聞いたのは、屋根のある南列柱廊だった。
ポンペイには石やレンガでつくられた柱や壁は残っていますが、木材は焼けてしまったので、現在のもので復元されています
それもそうだ。おかげで傘を下ろして説明が聞ける。
背後の壁は、石とレンガが交互に積み重なっている。
『完全復元ポンペイ』は、オプス・ウィッタトゥム・ミクストゥム(細片混合積み)、オプス・リスタトゥムとも呼ばれ、四角い石を1列に並べた層と、レンガを少なくとも2列に並べた層を交互に積み重ねたもの。62年の大地震後に多用されたという。
パンテオンはローマン・コンクリートで軽量に造ってあったが、ポンペイの建造物もローマン・コンクリートが使われていたとガイドが言った。
板で挟んで、外側の石を並べ、その中に石のかけらなどを入れコンクリートを流し込んで、固まったら板をはずします
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、ローマ時代のコンクリートは基礎として用いられる場合、木製の仮枠の中で固められたが、地表上に壁として構築する場合、通常、石材や煉瓦によって仮枠を造り、その中にコンクリートを流し込んで凝固させ、石材や煉瓦による仮枠はそのまま残していた。そのため、この外側の壁の造り方には特徴があり、年代的な変化もみられるという。
仮枠を石材やレンガを積んだだけの場合、コンクリートを流し込む時に崩れたり、歪んだりするのではないかと素人の私は思ってしまうが、熟練工は簡単にやってしまえたのだろうか?
いや、石材やレンガをモルタルでつないで積み上げて枠をつくり、固まったら内部にコンクリートを流し込んだということか。
東列柱廊を歩いて奥の大劇場へ。列柱の下部に赤いものが見えるが、レンガでもないようだ。
右側は角柱が並んでいた。こちらはすべて赤レンガ製。中はやっぱりローマン・コンクリートかな。
同書によるとオプス・ラテリキウム(レンガ積み)。
大きさも厚さもさまざまな焼きレンガのブロックを少しずつずらして積み重ね、表面仕上げをする。専用のレンガではなく、割れた屋根がわらを再利用することも多かった。ポンペイに導入されたのは前1世紀の後半からであるという。
もう少し進むと角柱がなくなり、壁がせまってきた。この向こうにD:音楽堂(オデオン)がある。
『完全復元ポンペイ』によるとオプス・クアジ・レティクラトゥム(擬網目積み)というものらしい。
溶岩石と凝灰岩を材料とし、10-12㎠程度の石をほぼ格子状に積み重ねて表面仕上げをする。ポンペイに導入されたのは前1世紀前半からであるという。
同書には壁面の石の並べ方がいろいろ示されている。ポンペイに行ったら壁面もよく観察しようなどと思っていた。
擬網目積みがあると当然ながらオプス・クアジ・レティクラトゥム(網目積み)もある。
ピラミッドの先端を切った形に正確に切断したブロックを斜めの格子状に積み重ねる。ポンペイに導入されたのは前1世紀のなかばからであるという。
網目積みを適当に積み上げるようになったのが擬網目積みかと思ったが、擬網目積みの発展した技法が網目積みのようだ。
四角く長い石を、このように積み重ねているものと、ずっと思っていたところ、内部はローマン・コンクリートで固めてあることを旅行にでかける直前になって知った。
しかし、網目積みを最初に見たのはローマのパラティーノの丘のリウィアの家だった。リウィアの家の壁面には、単一色の薄く四角い石が斜め格子に並んでいて、ローマン・コンクリートの壁体に、石をタイルでも貼ったかのようだった。
※参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」(1997年 小学館)