カッパドキア風の谷を過ぎると開けて平坦な地形になった。左手にアラス川、右手に線路を見ながらしばらく走る。
ホラサンの町を過ぎたところでトイレ休憩。ガソリンスタンドに併設されたコンビニでジュースなどを買う。
行く手にはまた別の山々が現れた。
休憩して20分ほど走ったところで古い橋があり写真ストップ。チョバンデデ Çobandede橋。
ここにも花があった。花の写真はこちら
『トルコ・イスラム建築』は、エルズルムの東約60㎞の地点で、カスピ海に注ぐアラクス河(トルコではアラス河という)に架けた橋。イルハーン朝のガザン(在位1295-1304)の時代には大規模な建設活動が行われたが、その一環としてイルハーン朝の大臣チョバン・ノインが1297-1298年に建設した。
当時のアナドル・セルジューク朝は、イルハーン朝の完全な支配下にあり、スルタンの生殺与奪もイルハーン朝の意のままであった。
長さ128m、幅8.5m、7つのアーチがあり、最大のアーチのスパンは13m、最高点は30mの高さである。切石造りの頑丈な橋で、現在は車両通行禁止だが、近年まで自動車も通行していたという。
チョバンは羊飼いかと思ったら、人の名前だった。
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二つ目のアーチは壊れているのか修復中なのか。
橋にあった説明版には、 カルガバザル Kargapazari山脈とアラス Aras川を結ぶとあった。グーグルアースで見てもカルガバザル山脈はわからなかった。
あと60㎞でエルズルム!
遠くに見える山々もどんどん変わっていく。
次の小さな町パスンレル Pasinlerに入る手前に城壁が見えた。
オスマン帝国時代の城壁です
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ここも写真ストップしてほしかった。
また牛の放牧。東トルコでは羊よりも牛をよく見た。
今度は右端の尖った山を追っていこう。そう思っていると段々山の中に入って遠くの景色が見渡せず、そのまま町の中に入って行った。
それがエルズルムの街で、段々と高い建物が見え始めた。
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チフテ・ミナーレ・メドレセ Çifte Minareli Medreseが車窓に入った。中央アジアを思わせる2本のミナレットが特徴的。
バスを降りて裏通りを歩き回って、古民家レストラン Erzurum Evleriへ(左壁の店)。何軒かを繋いで造られたらしい。
レストランの玄関間で靴を脱ぐ代わりに靴にビニル・カバーをつけた。日本でも靴を脱いで上がる習慣があるのに。
ふと見上げると天井がラテルネンデッケになっていた。5段くらいありそうだ。
ラテルネンデッケは日本語の三角隅持ち送り天井という言葉そのままに、正方形の天井の四隅に三角形の棚のようなものを作る。その上にできた正方形の四隅にも三角形の棚のようなものを作るというのを繰り返して、段々高く、小さくしていくのだが、こんなにたくさんの段のあるものは初めて見た。
実際の天井ではなく、石窟にラテルネンデッケ状の天井を造り出したものをキジル石窟第167窟(6-7世紀)で見上げたことはあるが、本物を見るのまた別だ。
キジル石窟の天井はこちら
しかし、三角形の持ち送りが小さく、正方形を45度ずつずらしていくという方法からはちょっと外れている気がする。
通路の天井にもラテルネンデッケになっているところがあった。
長い通路の両側にはレストランの部屋があったり、民俗資料が展示されていたりした。
かなり奥の方まで歩いて、一つの部屋に通された。テーブルと椅子がたくさん並んだ広い部屋だったが、周囲にはこたつのような低い丸いテーブルの席や、キリムや絨毯が掛けられたソファのある席などがあった。これだけで1軒の家かも知れない。
写真上左:トルコ風バゲット ekmekの上にユフカ yufkaがのせてある。せっかくなのでユフカを食べた
右上:トルコ風サラダ。大きなレモンがドレッシング
左下:自家製アイラン(奥)とメイン。メインは両側にシガラ・ボレイ sigara böreĝi、中央のマントゥ mantiはヨーグルトとトマトソースがのっている
右下:その拡大。シガラ・ボレイはチーズだけが入っているのかと思ったら、野菜も入っていた。マントゥは中国語の饅頭からきた名称だが、水餃子のようなものというのは知っていた。でも、こんなに小さいとは。
上:まず最初に出てきたスープ。柔らかいパスタが入っていた
下:最後に出てきたデザート、カダイフ kadayif、 ナッツの粉をかけてある
※参考文献
「トルコ・イスラム建築」飯島英夫 2010年冨士書房インターナショナル