お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年3月18日金曜日

3 悲劇詩人の家(Casa del Poeta Tragico)の奥に泉水堂(nicchie dei ninfei)?

フォロ通(Via del Foro)側から入って⑭フォロの浴場(Terme del Foro)を見学して、出たのは、テルメ通(Via delle Terme)だった。
道路を渡ってすぐに建物の遺構に向かうと、
それは⑲悲劇詩人の家(Casa del Poeta Tragico)だった。
鉄格子の向こうに、番犬のモザイク。
鉄格子の間から撮ると、赤い首輪にクサリまでついている。CAVICANEMというのは猛犬注意という意味かな。
壁画も残っていて、細長い玄関は二重の直線と黒いテッセラが等間隔で並んだ舗床モザイクになっている。玄関が狭いのは両側に貸店舗があるからだ。
何と向こうに人の影。どこから入るのだろう。
奥は庭になっていて、円柱が2本並ぶ。その横に泉水堂らしきものが見えた。中に入れたら泉水堂にモザイクがあったかどうかわかったのに。
ヴィクトリア・アイ工房制作の模型で泉水堂が庭の縁につくられたことがわかる(円内)。その左手には裏口があるらしい(『ポンペイ今日と2000年前の姿』より)。この家の西側は通りに面しているので、さっきの人たちはそこから中に入ったのだろう。
『完全復元ポンペイ』は、家はそれほど大きくはなく、インスラの南西角を占める敷地は、最初に建てられて以来、ずっとかわっていないようだ。唯一変更があったのは、列柱廊の東側に広い客間と台所が増築されたときである。最初に家が建てられたのは前2世紀と思われ、62年の震災後に壁面装飾が一新されているという。 
ということは、玄関から見えた壁画は第4様式(幻想的様式)だった。
同書は、アトリウムの床は、玄関ホールの床と同様、白を基調に大きな黒いはめ石を一定のパターンで並べたもので、2本の黒い線で縁取りされていた。アトリウムの中央には、側壁も底も大理石でつくられ、白黒モザイクの組紐模様で縁取りをしたすばらしい雨水だめがある。その北側には、縦溝つきの小柱と刳形つきの縁からなる大理石の井戸の頭部があり、側面のおおいをはずすと、中が確かめられるようになっているという。
復元すると、壁面装飾はこんな風になるらしい。同書は、豪華な執務室は第4様式で装飾された壁が今も2面だけ残っているという。
泉水堂の中は白いままだ。列柱廊はコの字形のポルティコからなり、縦溝つきのドーリス式円柱の下から3分の1は溝の幅が太めで、赤く彩色されていた。屋根のない中庭の突きあたりの壁には、だまし絵技法でえがかれた空想の庭(パラダイス)の木柵がみえていたはずだが、残念なことに、今はもうみることができない。庭園の西側奥の壁際には、高い基壇があり、小さな神殿をかたどったスタッコのララリウムがすえられている。

ララリウムはラレス神やペナテス神など、家の守り神の小像をおさめるための壁龕またはアプシスという。
泉水堂ではなかった。

同書は、発掘作業は、A・ボヌッキの監督下で1824年から1825年に進められた。ちょうど、価値のありそうな壁画やモザイクはすべて取りはずされてナポリ国立考古学博物館に移管されていた時期のことである。この家も例外ではなく、貴重な装飾はもとにあった場所からはがされてしまったという。
タブリヌムの舗床モザイクもナポリの考古学博物館にある。ひょっとして、ララリウムの内側も博物館に行けば見られるかも。

※参考文献
「ポンペイの遺産 2000年前のローマ人の暮らし」(青柳正規監修 1999年 小学館)
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」(アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni)
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)

「遺跡ガイド ポンペイ」(2002年 Editrice Millenium)