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2026年2月13日金曜日

アンカラ ローマ時代の公衆浴場 Roma Hamamı ve Antik Kenti


アンカラ城を見学後、バスで移動している時に山肌にはかつて住宅があった痕跡が続いたのをガイドのオキアイ氏が説明してくれた。
以前は山の斜面にといって一夜建ての家がびっしりと家が並んでいました。今では集合住宅を建てて、そこに引っ越させて、家を撤去しています。

30年前に来た時は山丸ごと家々だった。「山の頂上まで家が建ってますね」となにげなく発した感想だったが、当時のガイドのアティラさんが「あまり触れてほしくないみたいやで」と夫に言われた。

後日ある人からそれを「ゲジェコンドゥ gecekondu 」というと教えてもらった。
その後久しく思い出すことはなかったが、『物語 イスタンブールの歴史 「世界帝都」の1600年』を読んでいてゲジェコンドゥについての記事を見つけて驚いた。
アメリカのマーシャルプランという名の大盤振る舞いによって恩恵を受けたのは大地主ばかりで、小規模農家や小作農民は機械に職を奪われる格好で職にあぶれてしまい、アナトリアの食い詰めた農民たちが1950年代にイスタンブールへ押し寄せた。
家族総出で一気に壁を作り、夜明けまでに板でも何でも構わないので屋根をかけるところまで持っていく。屋根さえあれば「家」ということになるからだ。
内ごとに直線、地縁で固まった顔見知り同士が暮らし、自衛のために街の顔役を務めるやくざ者は出てくるものの、一定の秩序が保たれた一夜建ての街なのだ。イスタンブールだけでなく、各地のトルコの都市にできた(かなり短く編集)という。


アンカラの地図 Google Earth より
説明パネルは、ガラティア時代にテクトサグ・ガラティア人によって支配された古代アンキュラは、東西の交易路に位置していた。ローマ時代には、その重要な立地条件とガラティア属州の首都としての地位により、アンキュラはさらなる発展を遂げた。1937-44年に行われた発掘調査では、宮殿や屋根付き浴場を含む壮麗なローマ時代の建造物群が発見された。
浴場とパレストラの東側には、古代アンキュラの聖域、アウグストゥス神殿の領域から続く列柱道路が続いているという。

❶アナトリア文明博物館 ❷アスランハネジャミイAhi Şerafettin (Aslanhane) Camii ❸アスランハネ墓地 Aslanhane Camii Haziresi ❹アスランハネの墓廟 Ahi Şerafettin Türbesi ❺アンカラ城門と時計台 Ankara Kale Kapısı ve Saat Kulesi ❻アンカラ城 Ankara Kalesi ❼ローマ時代の公衆浴場跡 Ankara Roma Hamamı ve Antik Kenti ❽ アウグストゥス神殿 Augustus Tapınağı ❾ハジュバイラムモスクと廟 Hacı Bayram-ı Velî Camii ➓アタテュルク廟 Anıtkabir, Atatürk ve Mozole

浴場の近くで昼食

メゼ(前菜)とナン

それぞれの皿に取り分けて、スープと共に。飲み物は自家製のアイラン。

 
ウストュドネル Üstü Dӧner

デザートはヘルヴァ


その後カラカラ帝が造った❼ローマ時代の公衆浴場へ。
説明パネルは、浴場は、街路より2.5m高い台地にある。この台地は、古代の集落塚であるホユクであったことが知られている。塚の頂上にはローマ時代の遺跡(ビザンチン時代とセルジューク時代の遺構が混在)があり、底部にはフリギア人の集落の遺跡があるという。

下図はGoogle Earth より
A:入口 B:パレストラ(運動場) C:屋内パレストラ D:プール E:アポディテリウム Apoditerium(更衣室) F:フリギダリウム Frigidarium(冷浴室) G・H・I:暖房付きの部屋 J:カルダリウム Caldarium(熱浴室) K:サービスホール L:テピダリウム Tepidarium(温浴室) M:インペリアルホール N:列柱道路(アウグストゥス神殿へと続く) O:南の展望台 P:用途不明の部屋 Q:用途不明の部屋 R:北の展望台 S:用途不明の部屋 T:用途不明の部屋 


この方がイメージし易いかな。 説明パネルより
説明パネルは、発掘調査で硬貨が発見されたことから、大浴場はカラカラ帝(西暦211-217年)の時代に建設されたと考えられている。発掘調査中に発見されたその他の硬貨から、浴場は約500年間継続的に使用され、時折修復が行われていたことがわかる。この浴場は、通称カラカラ浴場として知られているという。


A:入口を入るとB:広い運動場(パレストラ)の周囲に石碑が並んでいる。右手の草地がパレストラ
この柱廊の周囲には、32本の大理石の柱が立っていたという。

パレストラを囲んでいた列柱回廊に石碑などが展示されている。


B:パレストラの回廊の一角から浴場へと向かう。


D:プール
Google Earth のメジャーで計測すると長さが30mある。

写す場所が悪かったので1枚に収まらない。
ポンペイのスタビア浴場について『完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ』は、ローマ時代の最大の改革は体育場の設置にあります。そこでは種々な体育訓練と水浴を交互にすることができたのです。大きなプールの両脇には、脱衣場の他にボクシングの前にオイルを塗る部屋やくしのようなさじで汗をとる部屋もありましたという。
公衆浴場といってもそれぞれに違いはあっただろうが、この大きなプールは、パレストラで運動する人たちのために造られたのだろう。

浴場の仕組みについて説明パネルは、テピダリウムとカルダリウムは非常に大きく、アンカラの寒い冬の間、間違いなく人気の場所だった。これらの二つの部屋は地下から暖房されていた。床はレンガの柱で支えられ、その周囲に熱気が循環していた。この地下暖房には、空気を温める地下の炉を稼働させるためのトンネルと連結管が必要だったという。
現地説明パネルを元に部屋を特定したのだが、テピダリウムとカルダリウムには地下暖房は見えない。もっと深いところにあるのかも。

O:南の展望台より

プールの西隣にL:温浴室(テピダリウム) 

K:サービスホール(用途不明) 
J:熱浴室(カルダリウム)はその向こうだが、展望台からはここまでしか見られなかった。


その後プールの外側の通路に沿って奥の遺構を見学したのだが、あちこちに床下暖房の痕跡が見られた。

C:屋内パレストラ

丸いレンガを積み上げたものが等間隔で並んでいるのは床下暖房(ハイポコースト)の熱風を通すための装置。
オスティアアンティカで見つけたハイポコーストはこちら


その向こうにE:更衣室


後ろ側を向くと、M:インペリアルホールの三間続きの遺構
建物の遺構はレンガ積みの土台て、石碑はここから出土したのではなく、展示しているだけ。

そしてB:パレストラとそれを囲む柱廊跡
低い建物の向こうにアンカラ城が見えている。


通路を北側まで進んでC:屋内パレストラの角で曲がった。


N:北の展望台へ

左はP:用途不明の部屋 右はQ:用途不明の部屋

遺構の北西端
G・H・I:暖房付きの三連の部屋はよく見えなかった。

P室とQ室の間には溝があるのは、冷めた水を回収するための仕掛けだすろうか。


周辺に置かれている時代不明の大甕や

ライオン像などを見ながら入口の方へ引き返していく。


パレストラの外側には石碑や


柱頭などがずらりと並んでいたが、じっくり見る余裕はなかった。





参考文献
「物語 イスタンブールの歴史 「世界帝都」の1600年」 宮下遼 2021年 中公新書
「ポンペイ 今日と2000年前の姿」 アルベルトC.カルピチェーチ 2002年 Bonechi Edizioni

参考にしたもの
現地説明パネル

2022年3月22日火曜日

オスティア・アンティカ1 墓地~消防士の宿舎


タルクイニアからローマへの帰り道。右手に見え隠れするティレニア海をのんびりと眺めていた。

邪魔な送電線の向こうに島が2つ。近くの小さな島が見えているのかと思っていたが、ローマ・タルクイニア間には小さな島さえなく、見えていたのはコルシカ島とサルディーニャ島だったとは😮

ちいさな町、ゆっくりと進む船、水平線、ずっと見ていても見飽きることがない。


やがて道路がカーブして、太陽の光が海に反射して白く輝きだした。


海が見えなくなってしばらくすると、テベレ川のスカファ橋へ。この橋のためにマストのある船は上流方向には行けないので、両側に密集して浮かんでいる。
古代にローマの外港として造られたオスティアはもうすぐかな。 

フィウミチーノ空港が近いので、ひっきりなしに飛行機が飛んでくる。
おっと右端の木の奥に遺跡が!

空から見たオスティア・アンティカ
右下方に半円形の劇場跡が見えている。
オスティア・アンティカの航空写真 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より


やっとオスティア・アンティカ考古学区に到着。現在のオスティアの街は別にあるので、「古い」を付けてオスティア・アンティカと呼ばれている。

遺跡地図
オスティア・アンティカの遺跡地図 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より


❶墓地
摩滅した玄武岩の敷石のおかげで歩きにくい。当時は墓地は市壁の外につくられたので、ローマ門までは墓地が続いている。
『望遠郷 ローマ』は、ローマでは聖域である都市境界ポメリウムの外側が、死者の埋葬の場所であった。これは知られる限りの古い時代からの習慣だった。このため古代ロ ーマの街道沿いには、社会階層や埋葬儀礼によって異なる多様な一大墓所が形成された。土葬と火葬が同時に存在したが、どちらが優勢だったかは、時代によって異なる。共和政期は火葬が優位で、納骨堂(無数の骨壺を並べた建物)や骨灰を納めた祭壇が好まれた。逆に帝政期には土葬の習慣が広がり、カタコンべが出現する。土葬は、より広い空間を必要とする。これに機能的に対応すべく、死者を地面の下に造った墓地に埋葬したのである。4世紀以後、ローマ市民が新宗教のキリスト教に帰依するに従い、カタコンベはほぼキリスト教徒に独占されたという。

これで一つの墓なのか、それぞれの軒飾りの高さが違うので別々の墓なのか、

右端の軒飾りには七宝繋文が横一例に並んでいる。


土のところ、当時の歩道を歩いた方が楽。


こんなおしゃれな壁面も
これは網目積(オプス・レティクラトゥム)という積み方。
詳しくはこちら

それは広い墓所を囲む壁だった。


その向こうにアーチ門のある墓所。これについても別記


屋根が掛けられた壁面はアーチが並ぶ。小さなアーチの墓と呼ばれている。

そこにはこんな面白いタンパンが並んでいた。


それぞれ太陽を表しているよう。


しかもティレニア海に沈んでいく夕日。やや不気味~😨


実際には見ていないが、この墓域ではテラコッタの香油瓶が出土している。時代は不明だが、古代ローマの香油瓶なのに、ローマン・グラスではなく土器である。しかも色ガラスをぽつぽつ付けたような装飾があるものも。
オスティア博物館蔵テラコッタ製香油瓶 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より

キリスト教時代の石棺も置かれていた。

体の汚れは、体に油を塗っり、それを落とすための道具肌掻き器があった。それがやがて並べられて石棺の文様になった。



やっと現れた❷ローマ門と周壁の一部

『ANCIENT OSTIA』は、ネクロポリスの向こうのオスティエンシス通りに、前80年頃にスッラによって建てられた壁に嵌め込まれたポルタロマーナが立っている。
つい最近、新しい解釈が提案され、壁の建設開始日を前63年にしたという。
アカンサスの透彫のコリント式柱頭が残っている。
ローマ門の装飾断片 『ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME』より


古代オスティアの街に入って左手に、❸ヴィットリア広場の一部

勝利の女神ミネルウァ像
『望遠郷 ローマ』は、名は、ドミティアヌス帝時代の修理工事で加えられた門の装飾の一部と思われる有翼の勝利のミネルウァ像に由来するという。

それに続く建物

デクマノ・マッシモ(大通り)は相変わらずの石畳。

少しでも日陰のある側を歩いて右折。

ネットゥーノのポルティコ(柱廊)の跡


しかも二階建て
コロネードについて『古代ローマ人の危機管理』は、オスティアでは一般的に見られ、頑丈な柱の下部が残っている。歩道と解説される場合があるが、これらはある 特定の建物の前面に限定され、街路に沿って連続していないた め、街を移動するための歩道としては機能しない。おそらくこれらは防火対策、あるいは次章で解説する洪水対策として建設されている。スエトニウスが記すところではネロはコロネード付き廊下のみを推奨しただけでなく、コロネード付きの新型建物も考案したようであるという。

またデクマノ・マッシモ(大通り)にもどり、やはりコロネードのあった日陰を進んで行く。


やがて❹ネットゥーノの浴場へ。

階段を登ると

パレストラや浴場の建物が眺められる。
説明パネルの平面図
3ネットゥーノの舗床モザイク 4アンフィトリテの舗床モザイク 5冷浴室 6脱衣所 7微温浴室 9パレストラ 


左手向こうに9パレストラ(体育場)

パレストラで行われている運動の場面が舗床モザイクになっていて、当時の訓練の様子を知ることができる。

正面に浴場の建物群。

ポンペイやエルコラーノの浴場と同様に、浴場の床はモザイク画がある。
説明パネルより

仕切りの壁と影に邪魔されながら舗床モザイクを見学。
3ネットゥーノ浴場と呼ばれることになったネプチューン(ギリシア神話のポセイドン)が、4頭立ての海馬戦車に乗って疾駆する場面のモザイク。その回りには人間、イルカのほか、長くくねくね伸びた尾を持つ半魚の怪物がいる。

4アンフィトリテのモザイクの部屋
アンフィトリテはポセイドンの妻。トリトンは息子で上半身は人間、下半身は魚。
それにしても、左上のモザイクを見下ろす4人、現代人の影のはずなのに、何故か古代ローマ人のよう。

パレストラから見たシッラの舗床モザイクのある5冷浴室。円柱が2本、その向こうにはみごとなイタリアカサマツ。

浴場の建物群を眺めながら来たの方へ移動。

途中から浴場の建物群に入り、ハイポコーストも見えた。湯を沸かす時に出る熱気を床下に通して暖めた。


パレストラを出て奥の建物へ。

そこは消防士の宿舎跡
詳しくは後日

中庭には日本でもありそうな野草が咲いていた。


中庭と周囲の建物跡(パノラマ合成のため歪みがある)

ネットゥーノの柱廊まで戻っていく。
イタリアカサマツは大きな日陰をつくってくれるのでありがたい。

その途中にも建物跡が続く。

左の建物跡にあるパネルはカポーナ・ディ・フォルティナートと書かれている。

カポーナ・ディ・フォルティナートは説明パネルの下右図のように飲食のできる休憩所だった。


                 →オスティア・アンティカ2 劇場~同業者組合広場

関連項目
古代ローマ オスティア・アンティカの墓地で石積みを復習

オスティア・アンティカ4 フォロ界隈

オスティア・アンティカ3 大ホッレア~ディアナ通りのテルモポリウム


参考文献

「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」1999年 Newton Press

「OSTIA」 DI.EDIT.s.r.l.

「ANCIENT OSTIA A PORT FOR ROME」 VISION S.r.L. 2015年

「古代ローマ人の危機管理」 堀賀貴 2019年 九州大学出版会