お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2012年4月18日水曜日

6日目5 エルズルム3 チフテ・ミナーレ・メドレセ2 中庭

メドレセの門をくぐるとすぐに中庭が見えてくる。建物の端から端までが50mもあるので、向こうにいる人が小さく見えるくらい、この中庭も長い。
『トルコ・イスラム建築』は、中庭を囲む回廊と4つのイーワーンのある2階建てであるという。
『イスラーム建築のみかた』は、ペルシア風の建築とは、4つのイーワーン、つまりチャハル・イーワーン形式と呼ばれる。中庭各辺の中央に4つあるいは2つのイーワーンを対称的に配し、中庭の文節に躍動感を与えたのである。
アナトリア(小アジア)へは、13世紀半ばにイーワーンの技法が伝播した。モスク等の入口に使われるほか、マドラサ建築の中庭に好んで使われたという。
メドレセ(イスラームの神学校)なので、教室や寄宿舎などの部屋が中庭を囲んで建っている。4つのイーワーンは下図着色部。
北イーワーンから見た東中庭柱廊。他は2階建てだが、イーワーンのアーチだけが大きく開いている。
『イスラーム建築のみかた』は、イーワーンは部屋の4辺のうち1辺を戸外、時にはドーム室などより大きな空間に向かって開いている。正面に大アーチが設けられることが多い。しかも普通の部屋よりもかなり大きく、天井が高い開放的な広間となる。こうした広間をペルシア語でイーワーンと呼ぶ。
柱のない大空間としてのイーワーンの誕生は、紀元前後のオリエント世界に遡る。イスラーム建築史上で重要なのは、中世初頭の12世紀のペルシア世界で、古代ペルシアの要素であったイーワーンが復活し、大ドームとセットになり、モスク建築に取り入れられたことであるという。
柱廊の上の大アーチだけをイーワーンと呼ぶのかと思っていたが、このように見ると、奥の間も天井が高く、開かれた空間となっている。奥も含めてイーワーンなのだろうか。
奥の間の天井。これはドームではないだろうが、風変わりな天井がある。四隅から凸型のペンデンティブのようなものが出て、中央の花のような装飾に向かっている。中央は8点星になっている。
類似の天井がアニ遺跡の大モスクの途中まで崩れた部屋の天井にあった。
南のイーワーンから北のイーワーン。
イスタンブールのアヤソフィアなどは、アーチを支える柱頭の上に鉄の棒が渡してあって、補強のためだろうが、創建当時からあったのか、後世に加えられたものかわからなかった。
アヤソフィアの鉄の棒はこちら
浮彫のある木の棒はこちら
他にもアーチに鉄棒を渡した建物は多く見かけたが、ここでは四角い木の棒が渡してある。
北のイーワーンには渡していないので、補強ではないのかも。
西の回廊。天井は、途中までの交差ヴォールトが続く。柱は円柱ではなく八角形で、人字形を組み合わせた文様の浮彫がある。柱頭は出っ張らず、植物文が刻まれる。
回廊に入ってみる。浮彫のない円柱が並んでいる。
『トルコ・イスラム建築』は、建物ま石彫りは未完成のままである。例えば、回廊の柱は、石彫り装飾が施されているものもあれば、無地のものもあり、中には片側だけ彫られているものもある。
1277年の動乱は、メドレセの仕上げ作業が放棄された原因となりうるという。
西イーワーン奥の間の天井交差ヴォールトの天井に線状の浮彫がある。
南イーワーンの大アーチの浮彫装飾。隅に複雑に面が構成されていて、それぞれに異なる文様を浮彫りにしている。植物文が多い。
右から2番目の文様帯は、一見一筆書きの星のようだが、3本の紐の交差で5点星を作りだしている。
ある部屋の扉口の上には凹凸の浮彫で5点星を表しているが、5点星が縦横に整然と並ぶことは出来ないらしく、上下反対にして並べたり、ずらせたりしている。
装飾が未完成のままでも、このメドレセはイマームを目指した人々が学び、回廊を行き来したり、イーワーンに集うということがあったのだろうか。

※参考文献
「トルコ・イスラム建築」飯島英夫 2010年 冨士書房インターナショナル
「イスラーム建築のみかた 聖なる意匠の歴史」深見奈緒子 2003年 東京堂出版