『完全復元ポンペイ』は、第4様式は「幻想様式」ともよばれる。25年から50年にはすでにポンペイで用いられてきたが、広く普及したのは、62年の震災後、住宅の改修と装飾がいっせいに進められた時期であった。第4様式は、第2様式の遠近法と第3様式の過剰なまでの装飾性を、さらに強調した様式である。
腰羽目や円柱ではなく多層式のポルティコによる壁面分割、しばしば奇抜なまでの建築装飾がほどこされた最上部など、第2、第3様式の流れをくむ特徴もみられるが、えがかれる建築物は非現実的で、装飾はきわめて大胆であるという。
ウェッティの家 食堂壁画 ポンペイ
『完全復元ポンペイ』は列柱廊の北東角にある客間というが、『ポンペイの遺産』は、饗宴の場となるのはトリクリニウム(食堂)といい、「3つの横臥用寝台のある場所」を意味する。客も主人やその家族も、コの字形に配列された寝台に横たわりながら、中央に置かれたテーブルにある料理を味わうのである。
ここはいわば社交の部屋、持ち主の知性も問われるので、こうした主題を腕のよい職人に頼み、装飾させた。
窓越しに外の風景が望めるようなだまし絵風の壁画や、神話を主題にした絵画に囲まれていたという。
遠近法による建物の遠望や、部屋の柱や軒?の表現が見られるが、第2様式との違いは、その柱の華奢で装飾的な造りである。
絵画の上の軒は部屋の中に、外の建物が見える窓の軒は外にあるかのように描かれていて、刳りのある格天井に見せかけている。当時こんなに大きな窓があったのだろうか?
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ヴェッティの家、広間の東側の壁
『完全復元ポンペイ』は、オムバロス(アポロン神殿にある半球状の石。世界の中心とされていた)に巻きつくヘビ、左にはいけにえとして連れてこられた雄牛がいる。上の画面には、太鼓にあわせて踊るバッコス神の巫女がえがかれているという。
壁面に棚があるように壁面が小さく分割されている。
巫女の両側の細い柱は上部が人間となり、ウサギや道具を手にしている。巫女の背後の赤いリボンは立体的に表されているが、角柱の左の柱(第3様式では床から天井まで達していた)は花や葉がついて、人工的な植物のようだ。
小泉水の家 北西の待合室壁画 ポンペイ
小泉水の家は泉水堂が色ガラスを用いたモザイクで構成されていた。
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『完全復元ポンペイ』は、アトリウム北西角の待合室をかざる優雅なフレスコ画。おもな壁面は白地で、幻想的な建築物のモチーフがえがかれている。腰羽目のほとんどは黄色に塗られ、真ん中のパネルや、そのほかの囲い部分、建築物のモチーフには、聖具などを手にした祭司や寄進者があしらわれているという。
ウェッティの家とは全く異なる壁画だが、これも第4様式。極彩色の絵を好む人もいれば、このように白い空間の多い絵を好む人もいたということか。
壁面装飾 ローマ、ドムス・アウレア、アキレウスの間 後64-68年頃 第4様式
『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、部屋の周壁と天井はストゥッコ(漆喰)浮彫りによって厳密な枠取りがなされている。プリニウスが荘重かつ厳格であると述べている通りである。しかし、ストゥッコ枠取りの周囲に描かれた連続文にはさまざまな植物モティーフや多彩な鱗文が描かれており、往時の輝きを伝えている。また、枠取り内の矩形パネルを埋める神話画や神像、人物像は流麗なタッチで柔らかな表現となっている。広範な装飾モティーフを駆使して、幻想的ともいえる装飾壁面で覆われたこの部屋は、第四様式の壁面装飾の基本的な要素をすべてそろえているという。
宮殿のほとんどの部屋は金箔を貼り巡らし、宝石と貝の真珠がちりばめられていたという宮殿とは思えない地味な壁面だ。
79年の噴火でポンペイやヴェスヴィオス山の麓の町は灰に埋もれ、ポンペイの壁画様式は第4様式で終わる。しかし、今まで見てきたようにこのような壁画はポンペイだけでなく、他のローマの街や別荘にも描かれた。埋もれなかった街の壁画はどのようになっていったのだろう。
これ以降、ローマの壁画はほとんど文献には登場しなくなる。小噴水の家やドムス・アウレアの壁画を見ていると、壁面を派手な色彩による壁画で飾ることに飽きてきたのではないかとも思える。
現在ではパラティーノの丘のネロの地下通路と呼ばれている通路のヴォールト天井には、ストゥッコで枠取りだけでなく、装飾帯やモティーフなどもストゥッコにによる浮彫で残っている。
壁画ではなく、このような彩色のないストゥッコ装飾になっていったのだろうか。
そしてその後華やかになるのは、舗床モザイクだったのかも。
※参考文献
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)
「ポンペイの遺産 2000年前のローマ人の暮らし」(青柳正規監修 1999年 小学館)
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」(1997年 小学館)