お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2012年3月19日月曜日

5日目2 カルス Kars

ウードゥルの街を過ぎると、アルメニアとの国境に沿うようにD080号線を走っていく。
アルメニアとの国境が近いので、トルコ側に監視塔がたくさんあります。監視塔は撮影したのが見つかると、今まで撮った写真も全部削除させられることがあります。バスに乗っている人全員の写真を削除させられることがありますので気をつけて下さい
そう言われても、撮っても構わない場所なのか、ダメな場所なのか見当がつかなかった。

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あの尖った山はテケルトゥ山 Tekelti Daĝi、段々山の姿がはっきりしてきた。あまり高くはなさそうだが目立つ。
D080号線がトゥズルジャ Tuzlucaの集落に入る前に、横穴式住居群のようなものが山の上の方に見えた。
住居ではありません。岩塩を採っています
その内に新疆のクチャ郊外で見たようなすごい色の山が現れ、様々な色、いろいろな形の景観が続いた。チャールタグ風の岩山もあった。
中国には何でもあるが、トルコも何でも見られるところだ。
テケルトゥ山は近くにあるらしく、車窓に入る度に形が違って見える。
テケルトゥ山とD080号線の間の色とりどりの丘。東はトルファン郊外の火焔山から東アナトリアまで、地表に見え隠れしながらこの砂岩や泥岩の地層は、地殻の変動や風雨による浸食を見る者の目に焼きつける。
その後Kさんからこの辺りは写さないようにと警告された。
D080号線と分かれ、D070号線に入ってアラス Aras川を越える。ここは盗っても狩ったかな。あの橋も向こうの岩もトルコ側なので、ええか。
橋の向こうの岩も、先ほどと同じく新疆のような色をして、地層がほぼ縦になっているが、このような山もここでほぼ終わった。
突然山岳道路を急登するようにして高原に出た。高原は見渡す限りのお花畑。撮れないのが残念。
テケルトゥ山が向こうに浮かび、さらにその背後にはアララト山の裾野が広がっている。アララト山の頂上はもう雲の中。
諦めていると、例の赤いお花畑のところで写真ストップになった。 
花の写真はこちら 

その後また撮影禁止となった。ディゴル Digorは撮っておきたい小さな集落だったが、眺めているしかなかった。この町の上流にはアルメニア教会が幾つかあるらしいことがグーグルアースでわかった。

出発して40分ほど、カルスの街にさしかかった頃、道路の左側がにぎやかなので、バスが停まった。
カルスの市長の親戚の婚約式です
バスに乗っているのに飽きていたし、ほとんど人を見かけなかったので、見物に行った。
大勢の人が手を繋いで踊っている。
ツアーの人たちも手を握られて踊ることとなったが、ステップが難しく覚えられなかった。運動不足は解消したかな。
すぐに鉄道を越え、カルスの市街地に入った。
この街はロシアに占領されていたので、ロシア時代の木造の建物が残っています
これがロシア時代の建物かどうか・・・
カルスはあまり高い建物のない街だった。
トルコ人が多い街です
さっきの婚約式の人たちもクルド人だと思っていた。
『世界歴史の旅トルコ』は、10世紀、アゼルバイジャンを治めていたトルコのアフシンによって占領された。その後、アルメニアのバグラティッド王国のアショット2世の支配下に入る。後継者たちはこの町に教会をはじめとする多くの建造物を構築している。アショット3世の治世時に王国の都はカルスからアニへ遷都されたという。
ちょうど12時にオジャクバシュ Ocakbaşiというレストランに入る。中は妙に洞窟風にしてある。
まず何人かで分けるサラダ、そして刻んだ野菜をペースト状にした少しピリ辛のエズメ・サラタス Ezme Salatasi。カルスのパンは小さいピタパン。
メインは巨大な金属の皿に盛られてきた。これも何人かで分けるのかと思うほどすごい量の一人前。左からピラウ、イスケンデル・ケバブ Ískender Kebabi、右端はヨーグルト。
一度は食べてみたかったイスケンデル・ケバブだが、ものすごすぎる。ヨーグルトをつけながら食べるのだが、下にも刻んだパンが敷いてあるので見た目よりボリュームがあって、さすがに大食いの私でもピラウは口に運べなかった。
左下はメインよりも先に来たレンズ豆のスープ。
右下はデザートのキュネフェ Künefe、極細の麺を焼き上げてシロップ漬けにした中にとろけたチーズが挟まっている。
午後はアニ遺跡へ。
またもやお花畑の高原をひたすら走っていった。右の窓に尖ったテケルトゥ山、その西側にはもっと高い雪の残る山塊が見えて来た。
『トルコの旅はバスがいい』は、今世紀初め、ロシアのトルコ東部占領に絡んで、トルコ人とアルメニア人の間で相互に虐殺が行われた。トルコ人によって殺されたアルメニア人の数は、アルメニア側の数字では150万という。もちろんトルコ側はずっと少ない数字をあげている。同じキリスト教国の西欧諸国はアルメニアの肩をもつが、トルコ側の言い分では、ロシアの勢力を背景に最初にアルメニア人がトルコ人の大虐殺を行ったのだという。
私は200万人だと思っていた。
バスの中で若いKさんは、この事件について語り最後に付け加えた。
アルメニア人の意見とトルコ人の意見は違います。私は国際的な判断を待ちます

※参考文献
「トルコの旅はバスがいい」小田陽一 1998年 京都書院
「世界歴史の旅 トルコ」大村幸弘・大村次郷 2000年 山川出版社