お知らせ

イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2012年3月21日水曜日

5日目3 アニ遺跡1 雷に打たれた教会

春の花が咲きそろった高原はどこまでも続くのかと思ったが、ポツポツ民家が現れて、背後には城壁が立ちはだかった。
皆さん、アニ遺跡に到着です
グーグルアースでは、拡大していくと、アニ遺跡の建物が立体的に見えます。

大きな地図で見る

『世界歴史の旅トルコ』は、カルスの町から東へ約45㎞、アルメニアとの国境に位置するバグラティッド王国の都。以前はアルメニアの領土となっていたが、現在ではアルパチャイ川(大麦の川)が国境となりトルコ領に属する。アショット3世の治世時にバグラティッドの首都となった。969年、町を囲む城塞が建設された。アニはアルパチャイを砦がわりにしている。町の東西には渓谷が南北に走っており難攻不落の様相を呈している。
13世紀のモンゴルの侵攻によってアニは徐々にその力を弱めていったという。
アニにもモンゴルは攻めてきたのか。
1:ライオン門より入る。城壁は二重。内側の城壁にライオンの浮彫があるのでライオン門と呼ばれる。
内側から見たライオン門。入ると遺跡内は一面のお花畑。
Kさんは念をおすように言った。
アルメニアに向けて写真を撮らないで下さい。アルメニアの監視塔では、こちらいる人の目の色がわかるくらい性能のいい望遠鏡で見張っています。もし写真を撮ったのが見つかると、アルメニアから兵士がカメラを奪いにやって来ます
ライオン門から続く崩れた城壁④~⑦
28:教会は説明板によれば名前が複数ある。Redeemer、 Halaskar、 Kecel、アルメニア語なのかよくわからない。
横に広がらない、円筒形の小さな教会だ。アクダマル島の教会とは外観がずいぶん違う。
『世界美術大全集6ビザンティン美術』は、953年から1045年までは、ビザンティン帝国の後見のもとに歴代アルメニア王朝の首都として栄え、1000の聖堂の町と謳われたが、今はその遺跡も10を数えるに過ぎない。
この聖堂は、コンスタンティノポリスから持ち帰った聖十字架の断片を収める目的で造営された。十九角形の下層部とやや細身の円筒形の上層部を重ねた2層の周壁に、大小のブラインド・アーケードを巡らせ、円蓋を載せた外観には、記念建造物としての性格がよく表れている。
教会の名前はスルブ・プルキツ Surb Prkits、聖十字架聖堂、1036年建立、壁体の上層部と円蓋は14世紀に改修されているという。 
教会は赤っぽい石と黒い石を文様にするでもなく、適当に配したように見える。

同書は、土地産の朱色、黄土色、あるいは黒みを帯びたものなど、凝灰岩の截石を目地なしで精密に組み上げたそれらは、本格的な石造建築についてアルメニアの人々が並々ならぬ才能を秘めていたことを物語たっているという。
凝灰岩なら柔らかく加工し易かっただろう。
1900年代に落雷で破壊されました
近づくとその壊れ方が見えてくる。ドームと肩の石材が剝がれて、中身が見えている。その上草まで生えて。
半分が崩れ落ちたままになっていた。どうすることもできないらしい。
しかし、この教会の残骸は、壁面の構造をよく見せている。外観だけなら石造建築として見過ごしてしまいそうだが、壁の断面は凝灰岩の石材だけでなく、骨材の小石が見えている。
外壁と内壁には凝灰岩の切石を使っているにしても、アニではローマン・コンクリートと呼んできたローマ時代以来のコンクリート工法が使われ続けていたようだ。
ローマン・コンクリートについては後日。

下側は壁龕が5つ残っているので、おそらく12の壁龕が取り囲む円形平面の教会だったのだろう。外壁のアーチ列と数は合っていない。
あまり中には入らないで下さい
そう言われたので、あちこち移動してアップで撮った。
どれが後陣なのか形からはわからない。うっすらと壁画の残った壁面もある。
おそらく真ん中の楕円形のものは魚、背後に人がたくさん並んでいるので、最後の晩餐の場面。
下部の壁画にはキリストの十字架降下のような場面もあったりする。
「玉座のキリスト」をはじめ、その生涯を描いた13世紀頃の質の高い壁画の痕跡が看て取れるという。
きっとこのアーチ内の曲面は玉座のキリストが描かれていたのだろう。
残骸の中に、かつては外壁の一部だったであろう、アルメニア語の碑文とアーチ形。
その先に29:ハマム跡があった。何とKさんはハマムの壁の上を歩いていく。
向こうに説明板があるが、Kさんはどんどん行ってしまうので、写すことができなかった。
※参考文献
「世界美術大全集6 ビザンティン美術」1997年 小学館