お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2014年3月20日木曜日

クレタ島5 クノッソス宮殿5



クノッソス宮殿、10:中央宮廷の東側、東翼。


36 階段
C:東出入り口へと続くが、上方の屋根の付いた27:東翼大階段とは直接繋がってはいない。
C 東出入り口
部分的に赤く塗られた門の遺構が残っている。
部分的に赤く塗られた通路を通り、赤っぽい壁を回り込む。
振り返ると34:王の間の壁面が立ちはだかっていた。

左右の壁にくぼみが見えるが、これらは地震の震動に耐えられるように差し込まれた角材の跡である。

ここからは37:石材加工所、38:土器工房、39排水路の庭と続くが、どの辺りがこの部屋という記憶がない。
遺跡にあった説明板は、この一角全体について、書記が粘土板に文字を書くのを学んでいた。しかしながら、土器や壁画の工房という方がもっともらしいという。

37 石材加工所
『クノッソスミノア文明』(以下『クノッソス』)は、ペロポネソス半島のタイゲトス山域から運ばれた玄武岩が加工されていた。いくつかの石が未加工のまま残されていたが、これらは突然に破壊されたので研磨の途中で放置されたということを示唆しているという。


38 土器工房

39 排水路の庭

通路の両側の腰壁に円柱の痕跡がある。
クノッソス宮殿では、重要な部屋やそれに通じる廊下、階段にしか円柱はなかったとおもうのだが・・・
40 階段
41 大型ピソスの倉庫
『クノッソス』は、ここに置かれているピソス(貯蔵用土器)は第1宮殿時代に属し、これまでに見つかっているピソスのうちで最も大きいという。

42 ゲーム盤の通路
同書は、回廊内の地面に取りつけられた鉄格子の覆いの下をのぞくと、飲料水の給水システムを見ることができる。給水管は粘土製のパイプをつなぎ合わせてつくられているが、パイプの両側のサイズは異なり、環のついた太い方に細い方が差し込まれている。内部の水圧で土やごみが押し流され、管が詰まらないように工夫されていた。飲料水には、宮殿の南方にそびえるユクタス山から流れ出ていた水が用いられた。宮殿内には飲料水用、雨水用、そして下水用と三通りの給水・排水システムが完備していたという。

気付かずに通り抜けてしまった。
ゲーム盤と駒 前16世紀 イラクリオン考古博物館蔵
象牙、水晶、金、ラピスラズリで飾られたファイアンス焼きの王家のゲーム盤と三角錐の駒がここで見つかったという。
通路は左へと折れて、赤い円柱の並んだ43:北入口の見張り所へと近づいて行く。
 宮殿北側の平面図

43 北入口の見張り所
壁面には野牛狩りの浮彫壁画(複製)が見られる。

木に向かって?突進する牡牛の頭部と前肢が円柱の間から見える。
下辺に並んだ岩の表現が面白い。有名な牛跳びの図にあった岩模様よりも、辺りに転がっている岩を描いているようだ。
岩模様についてはこちら
44 税関
長方形の大きな部屋。エヴァンスによれば税関らしい。

D 北入口
宮殿に入来するための主要入口。港と宮殿を結ぶミノア時代の道がここまで伸びていたという。

青い服の人が通っているところ。
45 北西入口 
儀式の際に使用された入口であったという。

46 清めの浴室
宮殿内の礼拝所へ参詣する人々、あるいは宗教儀式に参加する人々がここで清めの儀式に与ったのであろうという。
その裏側というか表側というか。
47 劇場
二方の階段が接する石組みの壇の上が「ロイヤル・ボックス」、階段が観客席、そして二方から眺められる中央が舞台であったのではないだろうかという。
ロイヤル・ボックスは、2人のいる左の壇の上ということになる。
舞台が二列の歩道で半分に仕切られているのか、北側の平たい方が舞台だったのか。
南には西翼の2階に16:フレスコ画複製展示室が見えている。その下は21:王座の間だった。
48 王の道
敷石で舗装された二筋の歩道が交わる地点から始まる。エヴァンスによれば、「王の道」は、旧宮殿期に敷かれた。敷石と雨水を流すための排水溝(道の両側に取りつけられている)は、今もかなり良い状態で保たれているという。
しかし、王の道は西方向には辿れない。ロープが張ってあって、通行禁止になっている。
赤い矢印の通路を行くしかない。
出入り口。左にミュージアム・ショップがある。

以上、エヴァンスがコンクリートでかなり強引に復元したと言われるクノッソス宮殿の見学でした。

『古代ギリシア遺跡事典』は、近年関心を集めているのは、エヴァンスによる遺跡の復元の妥当性についてである。
最近では、このようなエヴァンスによる遺構やフレスコ画の復元が、かなりの部分、彼のヴィクトリア朝的な理想を実現する形で行われたことが明らかになってきている。おそらくエヴァンスの目には、海上支配を達成したと伝えられるミノス王の宮殿は、海外の植民地支配に繁栄の礎をおく祖国、大英帝国の宮殿と二重写しになっていたのだろう。このような先入観の上に組み立てられてきたミノア文明像をどのように解体し、あらためて構築し直すかが、いま大きな課題となっているのであるという。


とりあえずは見学した順に、ミュージアム・ショップで購入した日本語の簡単なガイドブックの説明に従ってまとめたが、今後クノッソス宮殿像が変わった時に、改めて見直したい。


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関連項目
クレタ島1 クノッソス宮殿1
クレタ島2 クノッソス宮殿2
クレタ島3 クノッソス宮殿3

※参考文献
「クノッソス ミノア文明」 ソソ・ロギアードウ・プラトノス I.MATHIOULAKIS
「古代ギリシア遺跡事典」 周藤芳幸・澤田典子 2004年 東京堂出版