お知らせ
イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。
詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。
2016年1月13日水曜日
パフラヴァン・マフムド廟2 廟に入る
午後パフラヴァン・マフムド廟を再び訪れた。
廟のファサード(朝写したものなので、扉は閉じているが、日中は開いている)のタイルはクニャ・アルクやタシュ・ハウリでは見なかったデザイン。
『ウズベキスタンの歴史的な建造物』は、パフラヴァン・マフムド(1247-1326)は詩人、哲学者、レスラー及び毛皮加工業者であった。伝説によると、彼は自分のワークショップに埋葬されたそうである。14-17世紀に、パフラヴァン・マフムドの埋葬地の周りに墓地が造られた。
1810年にムハマド・ラヒム・ハンによって廟は再建された。新しい廟には古い墓と高いダブル・ドームがあるハナカからなっていて、シルエットがヒヴァのシンボルとなったという。
靴を脱いで入ったところが二重殻ドームのあるハナカ。
部屋の左奥の隅で、ホジャが次々訪れる巡礼者たちにコーランを唱えていた。土足のままの場合はしゃがんだ姿勢だが、このように靴を脱いで入る部屋では、ホジャも参拝者も正座している。
室内を写すのがためらわれたので正面の壁龕のみ撮影。
しかし、写しても構わなかったようで、さすらいの風景 ヒヴァ その4ではホジャと北側の壁面全体の写真があります。
お参りの人々の邪魔にならないように、斜めから近づく。
この花の奥にある棺はモハメド・ラヒム・ハン1世(1806-1825)のもの(『ウズベキスタンの歴史的な建造物』より)。
二重の龕はヒヴァの絵付けタイルの系統だが、蔓草がずっと細いような。
平たいドーム天井には、花瓶のような形が8本の稜の間に絵付けタイルで表されている。
正方形からスキンチで導いた八角形のままドームが架かっているので、正円ではない。
コバルトブルーとトルコブルーそして白だったヒヴァの絵付けタイルだが、ここでは黄色も使われていて、全体に青が勝っていない。色褪せた感じすら受ける。
西壁の下に扉口が。
そこは小さな部屋で、全面がタイルで覆われていた。
ドームはタイルの絵柄のせいで移行部がはっきりとみえにくい。
北壁ドーム下のアーチ内に、小さな開口部があって、
四隅にスキンチを設け、正方形から八角形にはなっているのだが。
スキンチの上に黄色い線があり、それが八角形の輪郭となって、その上に円形がのっている。やはり正方形から八角形には移行している。
南壁には大きく浅い壁龕があって、お参りに来た人々のための椅子が並んでいた。
同書は、パフラヴァン・マフムドのお墓は西部の柵の後ろにあるという。
北壁の下側をまたしても撮し損ねたが、閉じた木の扉(柵?)が奥室との結界となっていた。とは言え、扉には穴が穿たれていて、そこにカメラを持って行って内部を写すことはできた。
このあたりもさすらいの風景 ヒヴァ その4ではきっちり撮ってあって参考になります。タイルもよく写っています。
左の穴からのぞいたが、上の方は写せなかった。
右の穴から除いても、上部は見えない。とりあえずこれがパフラヴァン・マフムドの棺。
上の小さなものが棺で、下は台座だと思っていたが、下の部分も全体で棺なのかな。
もちろん、イスラームでは、このように人の目に触れる棺は空で、地下の同じ場所に遺体は葬られている。
東扉口上には柱礎のような形が4つ、その輪郭は黄色か茶色。
木の扉はピンボケ気味。主文様は浮彫で、珍しいことに、周囲の文様帯は象嵌だった。
東壁面では、幾何学文様を作っている組紐が黄色っぽい。
ハナカの東壁にも扉口があったので行ってみることに。
同書は、1825年に、アッラクリ・ハン(1825-1842)が埋葬された東部が追加されたという。
東側に低い3つのムカルナスでできた半ドームのようなものがあり、やはりタイル貼りだったが、棺があったかどうか覚えていない。
続きに小ドームのある寝室のような部屋、
そしてまだ建物内は複雑に続いていそうだった。どれがモハメド・ラヒム・ハン1世のお墓だろう。
タイルについては後日
パフラヴァン・マフムド廟1 朝散歩で見つけた小さな墓廟←
→パフラヴァン・マフムド廟3 周りの墓群
関連項目
渦巻く蔓草文の絵付けタイルの起源は
パフラヴァン・マフムド廟のタイル2 廟内部
タイルの花瓶や釣鐘のようなものは生命の樹
※参考サイト
さすらいの独り言さんのさすらいの風景 ヒヴァ その4
※参考文献
「ウズベキスタンの歴史的な建造物」 A.V.アラポフ 2006年 SANAT