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イスタンブールでミマールスィナンの造ったモスクを見ていて、その前はどんな形のモスクだったかが気になって、オスマン帝国の古都を旅してきました。最後にはまたイスタンブールを訪ねます。 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2011年1月10日月曜日

4-4 サン・クレメンテ教会の地下2階に1世紀の住居跡とミトレウム

南側廊の西端に更に階段があり、下りていくと狭い空間があった。
『イタリアの初期キリスト教聖堂』は、その下の地下3層目には、1世紀のフラビア・クレメンテの邸宅跡が発掘されている。この家の一部がキリスト教徒たちの礼拝の場として用いられていた。すなわちティトルス、名義教会堂である。これが後に第3代教皇クレメンテに捧げられたのが、今日のサン・クレメンテである。面白いのはこの同じ邸宅の一部(今の後陣の下)にミトラ教の信仰のための集会所(ミトレウム)が見つかったことである。ローマ帝国の衰退に伴って東方で生まれ、唯一神である太陽神ミトラを信じ、次第に力を得たミトラ教とキリスト教の集会所が同じ邸宅内に共存していた。
今日、さらにこの遺跡の下、すなわち地下4層目にネロの大火(紀元64年)で破壊された遺構も発見されており、その歴史の積層に興味は尽きないという。

邸宅は地下2階、ネロの大火に合った遺構は3層目の間違いだと思う。
ミトレウムの上にキリスト教の最も重要な後陣を建てるというのは妙な気がする。全然別のところに建てた方が良さそうだが、キリスト教はケルトの聖地やローマの神殿跡に教会を建てる例は多い。その前の信仰の場所を征服するというつもりなのだろう。
仕切りのようなものがあちこちにあり、グループで見学している人もいたので、ミトラ教の祭室に近づけず、後回しにして先に進んだ。

廊下の端にミトラ教の教会があるという。
そこには3世紀のフレスコ画がある。
おそらくこの通路は上の教会の北側廊にあたるのだろう。通路というよりも各部屋と出入口が通路の役目を果たしていたのだろう。これが1世紀の居室という。
その先は2手に分かれている。左は上階に行く階段に繋がっていて、あるグループの人たちが階段を登っていった。我々はま音のする右の部屋に入った。
その部屋は神殿のプロナオス(前室)という。
その奥に水の流れがあった。ローマ時代の水道跡か何かから、今でも水が漏れているのだろうか。
暗い上にカビが生えていたりするので、ネロの大火の焦げ跡というのはよくわからなかった。
見残したミトレウムのある通路へ戻ったら、別のグループがやってきて、ガイドが今にも説明を始めそうだった。そうなるとまた待つことになるので、図々しく割り込んで祭室の中をのぞき込んだ。祭室は格子がはめられて中に入れない。そして暗い通路よりも更に暗くしてあるので、中央の四角い石にミトラ神が牛を屠っている浮彫がかろうじて見えた。
2世紀のミトレウム。最後に天国に召される前にアポロンとミトラの勝利を祝う饗宴をする場所という。
ミトラ教の信者たちは両側に寝そべって宗教的な食事をしたのだろうか。

※参考文献 
「建築巡礼12 イタリアの初期キリスト教聖堂」(香山壽夫・香山玲子 1999年 丸善株式会社)
「建築と都市の美学 イタリアⅡ 神聖 初期キリスト教・ビザンティン・ロマネスク」(監修陣内秀信 2000年 コンフォルト・ギャラリー)
「SAN CLEMENTE ROMA」(発行年・出版社不明)
「イラスト資料 世界の建築」(古宇田實・斉藤茂三郎 1996年 マール社)