お知らせ

イスタンブールを旅してきました。目的は、ミマール・シナン(正しい発音はスィナン)の建てたモスクやメドレセ・ハマムなどや、ビザンティン帝国時代の聖堂の見学でした。でも、修復中のものもあり、外観すら望めないところも多く・・・ 詳しい事柄は忘れへんうちにに記事をのせます。

2012年3月26日月曜日

5日目5 アニ遺跡3 ドームの失われた司教座付聖堂 The Cathedralは

30:ティグラン・ホネンツの聖ゲオルギウス教会を出て坂を登る。
屋根に草の生えた26:司教座付聖堂と崖に13:大モスクが見えて来た。
遺跡の説明板によると、司教座付聖堂は987年アニの王センバト Sembatにより建築が開始され、1010年ガギク Gagikの妻カトラニデ Katranideによって完成された。建築家は、1064年イスタンブールのアギア・ソフィアを修復したトルダト・メンデト Trdat Mendet。
その後セルジュク朝のスルタン、アルプ・アルスラン Alp Arslanがアニを征服し、最初の金曜礼拝を執り行った時に、この司教座付聖堂にミフラーブを付け加え、フェティエ・モスク Fethiye Mosueに変えたという。
トルダト・メンデトは、この司教座付聖堂を建設してから50年以上たって、アギア・ソフィアの修復をしたことになる。ミマール・シナンといい、建築家には長生きの人がいるものだ。
アルプ・アルスランはセルジュク朝2代目スルタンで在位1063-72年。カテドラルは完成後半世紀ほどでモスクになってしまった。
この教会も赤と黒の凝灰岩を文様にするでもなく組み合わせて造られている。上の方のアーチを支える細い付け柱が並んでいて、軽快な印象を受ける。
入口の周囲には何かが取り付けられていたようだ。半円形の石の左右にスキンチがある。ひょっとするとここに小さなドーム状のものがあったのかも。
ひょっとしてこれがミフラーブ?アニ遺跡からマッカは南の方向にあるので、ミフラーブは南側にあったはず。
説明板にあった平面図。1~5だけを見ると袖廊の短い十字形だが、左右に側廊のあるバシリカ式にも見える。1215年完成のティグラン・ホネンツの教会はこのカテドラルの平面に倣って建造されたのだろう。
1:ドームはアギア・ソフィア同様ペンデンティブで導かれている。
ティグラン・ホネンツの教会は、建物の大きさに比べてドームの円筒部が大きく感じたが、司教座付聖堂もドームが残っていたら、同じような外観だったに違いない。
ティグラン・ホネンツの教会との違いは、ペンデンティブの下縁となるアーチの刳りが、細く三重になっている点だ。3本のアーチがそれぞれの支柱に両側から下りて、目立った柱頭もなく、その刳りは床へと続く。
2:後陣には何か描かれていた痕跡がある。横断アーチにも壁画は残っていない。
中央の2本のアーチは1つになって、細い円柱につながり、柱は5本の刳りとなる。
後陣半ドームの下には細長い窓、最下段には10の壁龕。このような壁龕はティグラン・ホネンツの教会にはない。
3:右袖廊。上ばかり見上げて写したので、下に付け加えられたミフラーブには気づかなかった。というよりも、内壁には何もなかったから気づかなかった。きっと南扉口に取り付けられたものがミフラーブだったのだろう。
壁際にも3本の刳りのあるアーチ、その下は2本の円柱と中央に角柱という組み合わせの複合柱がある。
4:左袖廊。この複合柱はヴァスプラカン王国の国王ガギクⅠが915年に建てたアクダマル島の教会の2本の柱を1本にまとめて、一箇所からペンデンティブが出せるようになったとも思える。
各空間の境目にある刳りのあるアーチと複合柱が、教会内をすっきりと見せている。
5:拝廊。これも上ばかり写して扉口の写真がなかった。
5:身廊の出入口から出て外側を眺める。
『世界歴史の旅トルコ』は、1064年モスクに改装。その後グルジア人によりふたたび教会になったという。
左向こうには落雷で半分になってしまった28:聖十字架聖堂(1036年建立)。

※参考文献
「世界歴史の旅 トルコ」大村幸弘・大村次郷 2000年 山川出版社