チフテ・ミナーレ・メドレセを見学後、タシュハーン キャラバンサライへ。
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キュムフリエト通りCumhuriyet Cdの北側を通る。ウル・ジャーミイ Ulu Camiiはその名の通り大きな建物だ。そして、今まで見てきたモスクとは違って、堅牢な造りの建物だった。
『トルコ・イスラム建築』は、エルズルム・ウル・ジャーミはサルトゥク朝によって1179年に建てられ、その後何度も大幅な修理を受けた建物である。約55mX43mのやや横長のプランである。ミフラーブ前には直径10m強の木造のドームを架けてマクスーラとし、その前方の礼拝室の中央に明かり取りの空間を配置している。当時のモスクすべてに共通するが、屋根は木造天井でも、煉瓦造りや石造りのヴォールト天井でも、その上は厚く土で覆った陸屋根であったという。
さっき見たチフテ・ミナーレ・メドレセよりも1世紀ほど前に造られたモスクだった。
ヴォールト天井でも陸屋根にしていたとは知らなかった。土で厚く覆うのは、夏の暑さと冬の寒さをしのぐためだろう。
ミフラーブ前の木造ドームは、露出した構造を下から見られて興味深いという。
4つのペンデンティブで支えられた木造のドームは、グーグルアースに添付された写真で見ることができる。こういう風に板を持ち送っていくとドームに成っていくのかと感心するような造りだ。
また、中央の明かり取りの空間の天井はムカルナスによるドームになっている(下図中央の赤い部分)のが、「初夏の東トルコを旅して」の10日目カルスからエルズルムへに写真があった。
ムカルナスのドームについてはこちら
中に入ってみたかったなあ。下図は上がミフラーブのある南側です。
またキュンベットがあった。ジムジメ・ハートゥーン・キュンベット Cimcime Hatun Kümbeti、高さのないキュンベット。
9038エルズルム地域の12-14世紀創建の墓廟建築に関する調査報告は、1350年までの建造、基壇は円形、壁面はは外部12角形、内部円形という。
交差点に出てララ・ムスタファ・パシャ・ジャーミイ Lala Mustafa Pasha Camiiが見えたところで右折。
メンデレス通り Menderes Cdを北に向かう。
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5分ほど歩くと角形の煙突がたくさんある建物が見えて来た。これがタシュハン Taşhanというキャラバンサライ跡。
今では黒曜石のアクセサリを売る店が並んでいる。しかしウズベキスタンの首都タシケントは「石の町」という意味で、タシは石だとしたら、このハンが出来た時すでに黒曜石を扱う隊商が集まるところだったのかも。
中庭の中央には木陰があって、地元の人たちはここでのんびりとチャイを飲んでいる。
黒曜石のアクセサリーを買う訳でもないのに、なんで我々はこのような所でゆったりと寛げないのだろうか。
タシュハーンの外には水場があって、子供が水を飲もうとしているのか、水遊びをしているのか・・・
来た道を戻ってララ・ムスタファ・パシャ・ジャーミイまで戻るが、見学することなく次に向かった。
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木々の間を抜けていくと、またしてもキュンベットがあった。
ヤクティエ・メドレセと一体化したようなキュンベットだ。
同書は、ホジャ・ゼマーレッディン・ヤクートのために、ヤクティエ・メドレセシと一緒に1310年に建設された。
屋根に使用されている赤茶色の石は、土地の人たちがカンベル石と呼んでいる火成岩であるという。
同報告は、基壇は方形。墓廟の躯体はブラインドアーケードによって文節されており、ブラインドアーケード下部では12角形、上部では円形をなしている。
ブラインドアーケードは、多角形をなす外壁面の各頂部に設けられた台座と柱頭を持つ付柱を繋ぐアーチによって構成されているという。
『東アナトリアの歴史建築』は、アルメニア建築のドラム・ドームの構成をそのまま採用したものと言えるという。
キュンベットはアナトリア独自の墓廟だと思っていたが、そう言われれば、アニ遺跡で見たアルメニア教会のドームに似ている。
屋根下の装飾帯は組紐文と幾何学文がある。
※参考サイト
初夏の東トルコを旅しての10日目カルスからエルズルムへ
9038エルズルム地域の12-14世紀創建の墓廟建築に関する調査報告
※参考文献
「トルコ・イスラム建築」飯島英夫 2010年 冨士書房インターナショナル
「東アナトリアの歴史建築 Stone Arks in Oblivion」篠野志郎 2011年 彩流社